じぶん

現在のはてなブログのトピックの一つに「現在の職を選んだ理由」がある。固定職に就いていそうな記事は読む気にならなかったので、中卒や高卒、または職を転々としている記事を読んでいた。

自分のこれまでを加味し、これからを考えてみる。すると

  • 対人は多く含まれないほうが良い
  • 接客は恐らく向いていない。表情は良いらしいが、不満顔がくっきり出る。
  • 学生のノリ(所謂ウェイが多いところは身が持たない)
  • 単純作業は無理
  • 変化の富んだ仕事がいいと思われる
  • ユートピア論に近いが)殆ど上下関係の無い所が良い

などなど。挙げてはみたものの、なんだかこれに当てはまる職業というのはなさそうで、自営業か、それこそ大学教員くらいじゃないかと思う。その大学教員になろうもんなら他に伏線も張れないとも思う。今の関心はもっぱら哲学であるし、そもそもこの哲学への傾倒は<気づき>からであった。哲学に出会うまでにあった思考やそれが周りと相容れないことへの劣等感や悩み、それを一時的に解消し、現在の状態まで持ってきてくれたのは哲学だったので、これには本当に感謝がある。ドラマだ。

 

ところで、哲学病患者である自覚はあるが(残念ながら診断書は出ていない)哲学病を患った者にとって、哲学というものには魔力がある。それのみで、他を退ける力。藝術分野には疎いが、音楽や美術という分野も、それなしでは生きていられない精神状態に陥るのではないかと思う。だとすれば、哲学もその意味に於いて藝術の一分野とも言えるのかもしれない。娯楽に没頭したつもりでも、頭の片隅に、意識の片隅にこの哲学が住み続けている。これを失ったとき、私は晴れて哲学病患者からの脱出である、そしてそれに盲目的に取り込んできた故の欠陥は色濃く残る。

私にはもう、この道しかない、そう思い込まねば恐らくこの藝術を生かして、生き残ることが出来ない。またこれは、ほぼ間違いなく観念論であって現実的問題をほぼすべて棄ててしまっている。それでいいのかも知れない、これに没頭し死ねれば本望とも言えるだろう。

 

人間的に生きるうえで、一貫性という問題が恐らく大昔から付随していることだと思う。今言った観念的な理想を第一に掲げつつ、現実的直面からの逃避は一貫性が欠ける。この両者の強度としては間違いなく後者が強い、私が夢見がちだという理由のみで私は理想を掲げる。

 

私の掲げる理想と、未完了現実的直面の殆ど無意識なる結果論。理想とは何であろうか、退廃的な現実からの正方向への脱出であろうか。退廃的か否か、正方向か否か、これは個々人の経験に縁るであろうが、求めているのはその当人に於いては退廃的現在現実から正方向であるだろう。だが「理想」という言葉に、否定的なニュアンスが込められているのは何故だろう。それならばまだ「夢」のほうがそのニュアンスは弱い。それでも、「現実」という言葉と並ぶと相対的にか無理に近い雰囲気をかもし出してくる語である。私は、この否定的なニュアンスに感覚を支配されている気分だ。理想を掲げると、私の中の別の私が嘲笑ってくる。

未完了・現実的・直面は私たちの無意識ながらの推論が基となっている。凡そが帰納法であろう。哲学の主要テーマとしてこれを疑う態度がある。これまで"そう"であったことはこれからも"そう"であろうか?時間への懐疑も含まれてしまうのだが、現在位置から認知できる過去(と称されるもの)の経験的(伝聞も含む)観測から、未来(と称される)位置への推移に推論を使用する。常識的、感覚的にはこれまでに連続的に起こっていることはこれからも連続的に起こるし、そう信じていないと私たちは何も出来ない(心臓が突然止まる・思考が突然止まることを考えると自分との矛盾が意識内に発生する)

科学や一部哲学は、こうした陥りやすい自己矛盾を是正することに意義があるのかもしれない。

 

 

こうして哲学(っぽい)テーマについて考えていると、思惟世界に入ってしまい、こころが浮つくような気分を味わうことになる。現実の世界に肉体のみ残し、形而上学的世界に精神が在るような状態。このとき精神が現実世界に戻ることを私が思う中で最もよく表しているのが「ハッとする」である。ハッと気づくのだ、現代世界に必要とされているのは殆どが肉体であり、思惟は二の次だということ。肉体が亡べば、この精神も消えてなくなるであろうこと。苦痛や快楽を味わっているのは、あくまで肉体であるということ。生き残るためには肉体が必要であるということ。全て、気づきである。その気づきと共に、一部の人は「絶望」を起こす。思惟内世界は自由である、生きることも死ぬことも自由で、自分のみ理解できる論理構造も可能、一時的にはこの営みだけで生きていける気分を味わわせてくれる。ここでの快楽値が高いほど、ハッとしたときの自己矛盾が自分に重くのしかかる。こうしてダラダラ説明したが、これは即ち「現実逃避」なのである。

 

自分の世界は、自分の思惟にしか構築されない。哀しい。

望むコトバ

何か書きたい書きたいと思いながら過ごしていると、前回の更新から歳が明け、1月も半ばになってしまった。書いては消し、書いては消しを繰り返し、結局何を書きたかったのかわからぬまま。やはりTwitterのように字数制限があると便利だ、思いつきというのはたいてい140字以内で収まる。

 

・いつかも書いた気がしなくもないが、ブログ記事として書くとなると、私の無意識は『2000字程度』を目処にしているらしい。今回は1000字程度で収められるように簡潔なブログにしたい。

 

・思いつきというのは凝固させてやらねば、抜け落ちてしまう蒸気のようなものだ。その凝固作業とは即ち言語化に当たる。言語化の正負両面を観察して見る、すると正の面には凝固作業、そしてそこから得られる実感としての意識や無意識の表層化が見られる。一方の不の面、言語化とは当然ながら『現段階で存在認知され得る言語』内部でしか表現できない。最も適切な表現はまだ見ぬ術語かもしれないと怯え、また言語によって蒸気を枠組みの中に固定してしまう…詰り意識外部の不確定的要素までもがそのコトバに内包されるということ。この言語化及び、言語本質についてはここ「はてなブログ」若しくは、小論としてpdf公開しようと思う。

 

・コトバは私たちの内面に常に潜み、ある形を成したとき様々なコトバとして表現されることを望んでいる。咽び、笑い、怒声…さまざまである。

 

・焦り。20歳ともなりつつ、手に掴むような何かを持てていないことへの焦燥。その焦燥と共に、退避的であろうとする私の<本質> 最早これを甘えと形容するのは莫迦らしくなってくる。実は自分は人間ではないのではないか、言うなれば人間の下位互換性を持ったなにかの生物ではないかと思える。ひとは極地に立つとき、焦り、何かしらの、一応の脱出への行動を取るとするならば、私はひとではない。

 

・まだ若いので今年の目標を立ててみた。『絶望』の小説を書き終える。「意識と本質」の更に深い理解と共に読了。古典ギリシア語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、古典語(古典日本語は外国語と見做している)をそれぞれ到達段階を設定し、今年度中に達成する。哲学史を現代哲学及び教育哲学、法哲学、政治哲学まで含み通史で学ぶ。

以上。

 

 

コトバって何やねん

コトバという術語が私に根付いてきた。この術語はもともと井筒俊彦の「意識と本質」にて使われ始めたものである。最初はただ使っていただけだったのだが、先著の理解もほどほどに進んでくると彼がどのような意図を持って「言葉」と「コトバ」を使い分けたかが解り始めてくる。

コトバは神であったと述べられるのはヨハネ福音書である。いつからコトバを神とする言説があったかというのは、私が知る中ではこれが最古だろう。そして井筒のコトバとは何を意味するかというのは、それは詰り「認知されるすべて」である。これだけれは勿論なにも伝わらない自身があるので私が理解した範囲で順に追って説明してゆこうと思う。

 

術語「コトバ」は私たちの霊魂をふるわせるものである。霊魂をふるわせたときに私たちは喜怒哀楽を表現する。美しいと感じたり、喜んだり、悲しんだり、悼んだり…それらすべてはコトバの作用である。私たちの感情それらはこころの叫びであり、コトバとの共鳴である。ひとが感情に疎くなるというのは、こころが曇り、コトバを感知できる繊細さを失っているといえる。(この要素が先天的だということについては前回の記事参照)

コトバは、言語にも存在するが、たとえば夕日を見たとき、たとえばひとの好意を受け取ったとき、たとえば親しい人を喪ったとき…私たちはこころの中で言葉を媒材として、口には出されぬが抑えがたい感情を受け取る。それこそがコトバの作用詰り本質である。

 

井筒が唱えたコトバの哲学とはこういうことだ。私はこの思想内容を知りえてから、なにかが変わったのかもしれない。井筒思想の評伝を多く書き述べている若松英輔が言うには、コトバは私たちの中に既に在るという。そして哲学の営みとは、それを想起すること(ιδέα)

 

私たちの霊魂(現代の精神というという音韻には合わない)は身体と共に在る。私たちが哀しむとき、たとえば親しい人を喪ったときその人は死者となる。心身がひとつであるとすれば、死者から私たちには何も与えられない…詰り私たちが哀しむことはないのだ。死者の霊魂はそれからも残り続け、私たちに語りかけてくる。それはコトバであり、またそれを私たちはこころの震えとして受け取る。こう考えると、神秘主義というものがオカルトチックなものでなく、コトバの形而上学として意味を持ち始めるのかもしれない。

 

私は絶望し、哀しんできた。そこに若松氏の著書から受け取ったやさしいコトバの数々がある、それを手にした私は強くなった。絶望こそが私の居場所であるのには変わりないが、その居場所からの視座が変わり始めた。やさしい語りかけというのはこうして私に想起させ、ぼんやりとだが使命を感じさせた。コトバってすげえ。

本質論

某氏から

 

1.人の本性は変化するか否か

2.本性は善か悪か

3.本性は存在するか

 

という3つの問題提起に関してブログを書けと提言いただいたので、ここで喜んで書かせていただくことにする。勢いそのままに書くので頭の中で考えうるまま抽出することになるので読むに堪えないという場合は斜め読みしていただいて構いません。(駄文は承知)

 

 

この内容における本性は音韻の響きによる違和感はあれど本質と言い換えることが可能で、2は性悪説性善説から話を進めることが可能である。3は現象学時代サルトルの論文から引っ張ってこれるものである。

 

人間の本性、本質は変化するだろうか。言い換えれば、その人をその人たらしめる要素は果たして私たちの思惟や知識と共に移ろい行くのだろうか。私の回答その1はNoである。何故か。私たちは生まれながらにして先天的な「私的感受領域」を受け取っているものだと考えている。私たちが自己の感覚を認識下で獲得してそれ以降は、文字や人間や思想に浸され変容していくように思われるかもしれない。

だがヘラクレイトスのような…また諸行無常ではなく少し見方を変えてみれば「私たちにはあらかじめ自分の感受できる領域が設定されていたのではないか?」と考えることができる。それは即ち、その分野に於いて絶望的な人間と類稀なセンスを発揮する天才が居るという選民思想の一種を認めることになる。

「あの人は私とは違う」は今更異口できぬ、れっきとした真であって、私たちは絶望的な分野には感覚的な嫌気がするはずなのである。それは本人の無勉が問題なのではなく、先天的に備わった領域がそれぞれ異なることを示している。この領域はかなり厳密に設定されているゆえ、逆説的に私たちは<自分にできること=他人にできること>という等式を成り立たせがちである。これが現代社会での「甘え」の図式にも適応されるのであろうが、それはまた別の話である。

要するに、さきほどの領域というのは新たな知識を獲得しても広がらない。知識は万人に受け入れられるものではなく、またその知識に対し自分が能力を発揮できるかは獲得するまでわからない。言わば、私たちの知識を獲得する作業はマップ埋めのようなもので、本性・本質はそのマップそのものと言える、マップ外へは行こうと思ってもそこはただ暗闇であり、それに酷い嫌悪感をおぼえることになる。(そこへ行くバグ技はあるかもしれない)

要点:先天的私的感受領域が備わっている。

 

 

次、私たちのこころの本質は善人か悪人か。

この二者択一ならば善人だと私は考える。他人のこころなど知れたものではないが、私は誰をも持ちうるこころの繊細さはあるのではないかと信じ、またそう考えている。私たちは文字を追うだけでもその人のリアルを追体験することができ、悲惨な追体験には心を痛ませ、喜びは共に味わうこともできる。だが同時に、まったくの他人に対して私たちは残酷になれるということも矛盾する事実として存在する。矛盾を相容れぬものとして、どちらかに同化させるというものは「論理として」正しいものであるが私たちの事実認識をひどく歪めることを危惧させる。この矛盾内での整合性は敢えて取らないものとする。

つまり、こころの本質は善であり、慈愛、自愛、他愛のこころを持ち合わせているにもかかわらず、私たちはそれをごく一部にしか…人によっては自分のみにしかつかえなくなってしまっている。

本質というものの本質は、磨けば光るものだと考えている。時代や社会やこころの痛む悪にさらされたわたしたちのこころは既に汚れきっているのかもしれない。だから私たちは親しい者に対する同調のこころを思い出し、その追体験としてこころを震わせることを、この「性善説」の現代的意義、そして私の信条として提起したい。

 

 

最後に、本性は存在するかどうか。ここまで書けば最早言うまでもなく、存在する。変わらず存在し、善のちからを持つ本性即ち本質はわれわれには存在している。

見えなくなっていることを、存在しないと解してはならない(またこれに対極から同様に言われることも十分にある)

 

こころは繊細であり、簡単に震えてしまうものなのだ。ほんのすこしじっとして無になり、親しい人の繊細な文章を読んで見よう。簡単にその世界に入り込んでしまうものなのだ。

上から下へ


私は足を空へ運んだ。身を空に委ねた。




耳障りな怒声が聞こえる。おれに対するものだ、無視した。

泣き声が聞こえた。おれが泣かせたのだ、深く哀しんだ。

笑い声が聞こえた。おれの外で起こったものだ、入れなかった。


おれは、この長いか短いかの人生の中で幾つ失敗をしたろうか。何人を泣かせてしまっただろう。何人を喜ばせられただろう。



空に身を委ね、大地に引っ張られ落ちてゆく。あと何秒私は生きられるか。




幸せな人生だった。おれは満足していた。与えられたもの以上を望み続けたが、今までのもので十分であった。

人間同士の理解ができないことへ絶望し、言葉で何も伝えられないことに失望し、愛をも儚いものだと知り、永遠がないことへの恐れを抱いた。




不思議なことにあれほど死にたいと願い、いざこうして身を投げると、生きていることが恋しくなるのだ…もう戻れないが。



自分が正しいと信じてやまなかった。誰に対しても、自分は正しいと思い続けた。自分は認められる存在だとされるべきだと思っていた。だが、現実は、今日ここ、もうすぐ、私である必要もない、「1人」が、その全てを失い、無を獲得する。




もうすこしで地上になる。長かった。落ち続ける時間もそうだが、ここに来るまでが長かった。




叱られることを恐れ続けた。嫌われることを恐れ続けた。自分を自分として残せなかった。理想的な子、理想的な友人、理想的な恋人でありたかった。欠陥だらけのおれは、このまま生きて関わり続ける勇気はなかった。この自分とも付き合っていけなかった。

だから落ちた。




人間の声が聞こえる。喚いているようだ。ああ、おれを見ているのか。悪いことは言わないから、さっさとこの場から去った方がいい。

おれが粉々に砕けたあと、世の人はどう思うかわかるか?「迷惑な奴だ」「仕事を増やすな」さ。人間の死なんてもうありふれていて、考え慣れているんだよ。いつも通りさ。



脳裏に両親が映る。最後までおれとは分かり合えなかったね、何一つわからずじまいだろう。

脳裏に男性が映る。おれは人間関係がへたくそだったみたい、自尊心を損なってしまってたらごめんね。これからはいい付き合いを願うよ。


脳裏に女性が映る。ごめんね、やっぱりおれは生きていられなかった。もうおれにはあなたしかいなかったのに、それすら投げ捨ててしまった。ごめんね。




おれは、そこで、意識が途切れる。





頭痛

ただ頭が痛く他にすることもないのでつらつらと書いてみようと思う。

 

毎度のことであるが、私は調べものをほとんどせずに自分の頭のみで考察をする。怠惰とかそういう理由もあるのだろうが「本当に正しい情報」が何かを私は知らない。与えられた情報を正しいと鵜呑みにしてきた弊害だろう、突然何が正しいかわからなくなってしまった。私の頭には、つねに肯定する私と、それに反発する私がいる。この二つの相乗によって最善の解が導かれるようであるが、実際のところ、反発のほうが強い。今まで私はなぜこれを正しいと思ったのだ、どうしてあのとき聞かなかったのか、今私にとってこの問題への接近はどのように行われるべきなのだ…と。

 

正しい知識とは即ち正しいとされている現段階の知識である。その知識の振れ幅は大きく、学者に委ねられるしかない。平安京の時代には寝殿づくりの建物があった(教科書等に載っているものであろうから気になれば参照)。その中の泉殿という建物がある。この建物、字の如く井戸をがある建物なのだが、上部からの図から見るとこの建物は池につくられている、その昔に森蘊という方が「井戸を池に作るアホがいるか」と指摘して現在の学校配布教科書はやや改訂されつつあるという(それでも改定されていない教科書もあるというのでその怠惰さに驚き呆れる)

 

所詮こんな程度なのである、特に歴史を顧みる必要のある学問においてこれは顕著。その時代の様相をつくりあげるのは(立場は)エライ学者である。その中にもきちんと正当性を疑い続け研究する者もいれば、呆れるほど怠惰な学者もいる、働き蟻の例のようだ。私たちはそれに振り回され、幼年期で培った情報であるほどにその根付きは深くなる。対立化のシンプルな原因である。だから私のここでの懐疑を正当化しようという目論見もあるのだが、正しさというその場限りでの「真」を私は信じたくないのだ。いずれ変わるであろう正しさを、その場その場でまた新たに学びなおすというのはどれほど無益であろう、考えて見て欲しい。

 

この私の懐疑、どのような立場の他者であれこれを適応する。疑うことにマイナス要素を感じてしまうようなひとは、おそらく私には近寄ってこない。

 

信じてもらわねばならないか?

疑ってはならないか?

あなたの向ける情は一時的なものだと思ってはならないか?

あなたのその発言、どうせ変わるものとして見て、ああやっぱりと納得してはいけないか?

その他人に向ける懐疑を自分に向け苦悩してはならないか?

浮ついたような今の現状、生と感じなくてはならないか?

 

 

あらゆるものへの懐疑心、哲学への傾倒もあり、さらに深くなってしまったようだ。私にとって哲学とは処方箋でもあり、麻薬でもあったのだろう。人と関わらねばならんこの中で、特に親しげな距離の人間にこの懐疑は向けるべきでない…少なくともその素振りは見せてはならんとされる。ああ人間同士の集まるこの空間…社会では「私」などほんの構成要素でしかないのだ。「私」は目立つようなことや反抗心を立たせることを望まれていない、もしそうなることがあれば「私」の代わりに「誰か」が来るというだけなのだ。世界内部は循環の連続、ただ「私」が消え「誰か」が入ったというだけ。そしてそのことを知られぬままに動いていくのだ、なんと儚いことだろう。

 

「私」が「私」である必要なんて無いのだ。

 

 

 

 

 

 

感覚の世界で生きられるか

この世では…たとえばこのタイトルのように「感覚の世界で生きる」と言ってしまうと理性的認識、本能的行動に対して揚げ足を取られ「お前は感覚で生きられていないじゃないか」と言われる。おそらく多くの人間は『コトバはほとんど何も表わしえない』ことに恐ろしく鈍感なのである。意思の表明(それは自己暗示も含めてである)はコトバに乗せるのが私たちの持つ手段の中ではもっとも手軽で、意識的行動である。

にも関わらず、鈍感なそれらの人々は揚げ足を取るのが本当に大好きなのである。だがこれらを揚げ足取りと取るか、あるテーマに没する興味深い思惟対象の具現化と取るかはまた難しい問題なのだ。

 

蛇足から入った今回のブログである。

今私の読み進めている小説…アンナ・カヴァンの「氷」…の端々を読んでいると、愛ってなんだろう、依存って何だろう、絶望ってなんだろうと考え始める。ドストエフスキー著作では、愛と憎悪の分別がつけられない、未発達的人間ばかりである。だがそれらは彼らにとって愛である…それと同様なものを、この小説の「私」そして「長官」からは感じる。少女に対する異常な執着、傷つけることに対しての軽率さ、それは暴力(表現)を伴って表れる。愛することということは相手を傷つけたいという欲望と表裏を成すのだろうか、彼らの行動・真理の本質はなんなのだろうか。

 

本質というものを考えていくとき、私は今までに大きく勘違いしていたのだが、本質は統一的な、画一的な、分節可能な、われわれの理性的認識世界のものである必要はないのである。根本的本質は『一』である必要がないのである。私だけでなく、恐らく他のひとたちも、自分に認識可能な理知的本質を求めようとする、であるから自分の認知不可領域に関してはそれを本源的なものとして(ましてカオスであれば)認めないのであろう。

 

このカオス的本質は、精神的葛藤をさまざまに持つ者に起こりえる。はたまた、ロシア的精神の本質もカオスであるともされる。

自己の精神内をコトバであらわそうとし、また、あらわされようとする。一時的にそれに納得しつつも、結局それらは自分の何もあらわせていないのだと気づき、絶望する。コトバとは私たちの第一的感性になりつつあるが、精神の儚さや繊細さを、未発達のコトバで表するのはあまりに惨いのだ。人間は、弱ったときが最も繊細、いや繊細だからこそ弱るのかもしれない…が、コトバというものを用いる人の多くは、その繊細さ、儚さを表現することができないのだ。大切な人の死と、どこの家かもわからぬ者の死を同じ1人としてしか表現できないようでは、その人は精神の脆さを硬直したコトバで捉えることなどできないのだ。

 

感覚的世界で生きること、これはコトバの世界から離脱を試みたい人々に手向けられるひとつの逃げ道である。肉体のさまざまを放棄し、精神のみをユートピアへ据え置く。いつだって精神は「快」の世界にいるのだ。だがこれは可能であるかないかを考えるまでもない話である。

だがもし精神体験において可能であれば…と願う。

その人はおそらく「異常者」となるのだろう。