「新しいヘーゲル」 読み終わった

新しいヘーゲル 長谷川宏 

を読み終わった。

 

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著者の長谷川宏は、本屋でぐるぐると巡回しているとよく目にしていた人だったが、何気に著書を読むのは初めて。今日レーヴィットの「ヘーゲルからニーチェへ 上」と共に買ってきて、帰って読んだ。内容は平易で、入門書という位置付け。私はヘーゲルの思想は弁証法(という概念)しか知らないので、初学者として入門することにした。

 

さて、本書の内容をレジュメのように、簡単に、主に自分のために纏めようと思う。「本が好き!」の方に投稿してもいいのだけど、私的利用価値の面で避けておく(簡易化して投稿するかもしれない)。

 

 

 

本書を通じて感じたことは、ヘーゲルの思想は主に「精神」に重きを置かれている。「精神現象学」がその証明である。そしてこれは、私が日ごろ思索する対象としての「意識」というものに密接に関わっていることがわかってきた。というのも、哲学書とは私や過剰な知的錯綜に襲われる人間にとって、丁度その主題が描かれているものだ。だからこそ哲学というのは「現象学」「時間論」「実存主義生の哲学)」というふうに大別され、およそ関心がそれぞれを行き来することになる。

 

さて本書の内容に入る。

ヘーゲルはむずかしいか?」という題目から始まる。ヘーゲルはたぶん難しい、だが難しくさせた原因はどこにあるだろうか。それは西洋崇拝をしてしまった日本風土にあると著者は言う。「観念」「論理」「思想」「社会」「自由権」などの哲学用語が明治時代に急速に輸入され、その翻訳に日本のエライ人たちが追われたことは容易に目に浮かぶ。これが時間と共に日本の風土と結びつくと思えば、そうはならなかった。西洋崇拝の中に哲学が組み込まれていたからである、人というのは崇高なものを解り易く、また自分と同位置に置いたりしない…という考えがその当時からあったようだ。だからこそ現代でも哲学というのはどこか忌々しさを与え、近寄りがたい印象を受けさせてしまう。これはもう、今後の翻訳者たちの力量に頼るほかないと思われる。

 

さて、ヘーゲルは翻訳されて難解になったのか、それとも元から難解なのか。長谷川氏曰く、ヘーゲルの著書を原語で読むことは難解ではない。内容を辿っていくと処理しきれない部分はあるものの、その内容は「難解さ」を生み出そうとするものではなかったと言う。これは中世哲学から近世哲学への変遷に原因を見出すことができる(即ちキリスト教からの解放)。権威を脱するところからの思索があり、そこに出来上がった哲学が同じく権威を脱した一般市民に伝わらないように書かれるだろうか?この対極として19世紀ロシアを思い出す。権力により支配され、書物も検閲を通してしか出版できなくなった。だから当時の文人たちは(頭の悪い)検閲官たちを掻い潜るため、内容にさまざまな手を加えたことだろう。だがこれを同様の支配下にあった市民たちが理解できなかっただろうか?そんなことはあるまい、同じく自由を渇望し、支配への抵抗があった彼らはそれら書物を理解できたはずである。

 

次にヘーゲル弁証法について語られる。

(前略)社会の弁証法では、むしろ、総体性の成立があやうくなるほどに否定の力が強調されねばならないのだから。個と共同体が徹底して対立し、矛盾するのがヘーゲル弁証法的な社会像なのだ。 

 「弁証法」を日本の文脈で汲み取ると、どうしても「和」というイメージが混入する。しかしヘーゲルの用いる弁証法、及びその内約はそのような暖かいものではない。歴史的に見て個人らは徹底的に神や王権、君主といったものと対立してきた。個はその支配に迎合してこなかった、つねに対立を選んできたのである。ヘーゲル弁証法とは、そういった歴史的に過激な二項対立を立脚点とし構想されたのである。

 

その青年ヘーゲルはその弁証法の先に何を望んだのだろう?それは古代ギリシアのポリスであった。抑圧の社会ではなく、集団的な自由の内包された世界を望んだ。

 

それは、個々人がばらばらに自己主張をくりかえすような社会ではない。個々人はその思考においても行動においても、共同体のしきたりや規範や通念をごく自然に受けいれてふるまい、共同体もそうした個人をゆったりと包み込んで存在する。個として生きることがそのまま共同体精神を体現して生きることであり、個々人の生きかたのうちにおのずと共同体精神が生きているという、そういう社会がヘーゲルのあこがれた理想のギリシャ社会であった。 

 

このヘーゲルの憧憬を呼んでいると、私には同じくギリシアに対する憧れを発し続けた井筒俊彦が思い起こされる。彼は神秘哲学者(これはヘーゲルと対立する対場であろうが)として「私のギリシア」―それはヘーゲルのあこがれる、ギリシアの生活、共同体の根底として流動的な哲学的思惟が存在することに発見―を得たのだった。近いうちにこの両者のギリシアに対する憧憬を描いてみたいものだ。

 

話は逸れたが、この憧れとしてヘーゲルは「精神」の読解を図ろうとする。そこで書かれたのが「精神現象学」である。その序文を見てみると

 

自然のままの意識は、知はこういうものだと頭に浮かべているだけで、実際になにかを知っているわけではない。が、にもかかわらず、意識は自分が実際に知識をもっているとつい思ってしまうから、知への道は自分を否定するような意味合いをもち、本来の知の実現が意識にとっては自己の喪失だと思えてくる。知への道は、意識の思いこむ真理が失われていく過程なのだから。したがって、知への道は疑いの道であり、もっといえば絶望の道である。 

 

先に言ってしまうと、ヘーゲルが序文で「知」を強調するのは最終的な「絶対知」のためである。絶対知とは概念的に思考する知、それを得ることで支配を受けることなく、冷静に現実の総体を見定めることのできるものである。また彼にとってそれは、学問の世界への到達でもあった。なぜ彼がそれほどまでに絶対知を重視したか、それは近代哲学がまさしく絶対知、理性の時代だったからだ。デカルトによって歩みだした近代哲学は主体と理性の絶対性を認めた上に、さまざまな思索を深めてゆく。ヘーゲルもその一人であって、絶対知という理性の獲得によって学問の世界を深めていこうとする。

 

意識が本当のありさまにまで突きすすむと、意識のまわりにあるものが意識とはちがう異質なものだという事態が消滅し、意識にあらわれるものと意識の本質とが一致し、意識の表現がまさしく本来の精神の学問と合致するような、そういう地点に意識は到達する。このように、意識がみずからおのれの本質をとらえるに至ったとき、そこに絶対知というものがすがたをあらわすのである。 

 

ここで私は井筒俊彦を再び思い出すことになる。彼だけではない、マラルメフロイトも同様にである。井筒で言う「本質直観」、マラルメで言う「輪郭の消失」、フロイトの「無意識の構造」がこれに比類している。4人は共通して「意識」という在り処を探り、それを変容的に、あるいは構造的に捉えようとしているのである。

 

ヘーゲルの理性への信頼は先程も言ったように、近代哲学による流れの一環にある。デカルト、ベーコン、スピノザライプニッツ、ロック、ヒューム、カント、フィヒテシェリング等。世界、人間のあらゆる難問は理性によって考え尽せるのだと考えていた。「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である。」ということだ。その中でもヘーゲルは飛びぬけて理性への信頼が厚かったことは知っておかねばならない、彼は理性によって全て解決できるはずと考えている。

 

 

 

さて、私としておよそヘーゲルを掴み始めたと感じたところで、彼以後の話も引用しておく。まずキルケゴールとの対立。キルケゴールは厭世的である、ヘーゲル弁証法の発端として思考の本質からしてまず同時に否定が生まれると言っているがそれを体現したような人物である。ヘーゲルにとって不安などのマイナス感情は成長によって克己されうるものとされる、しかしキルケゴールはその不安という感情にこそ本質を見出した、孤独や絶望というものに寄り添う彼の思想はのちにサルトルらに引き継がれる。この両者の違いは、否定的要素を主題に置くか否かであって、これはもはやどちらに正当性があると言うよりは経験則や実体験としてどちらかという話になるだろう。また先程にも出てきたフロイトも、ヘーゲルとは別方向で意識の構図を描いたという点で、対位置に居る。

 

私の場合は「意識」というもとからの主題があったおかげで丁度私が歩んできている思想の数々を思い描きながら読むことができた。これらの「意識論」と呼べうるものを解釈、選択し、私も私なりで意識についての図を描いてみたい、と思った。

 

おしまい。

題名を考えるは難しい

jougetu.hatenablog.com

 

先日、私の同志(恐れ多いが)である乗月氏のブログを読んだ。読書法というより、読書術という方が正しい内容であろう。氏はさまざまな読書体験から「快適な読書時間は3時間」という公式を導いた。読書人たちにとってこれは「生理的読書時間」としておくことができる。これが本当に正しいかどうかというのはあまり問題ではなくて「これくらいの時間を基準にすればよいのだな」と思えるのが大事なのである。

 

科学的な実証が見たいならば

human Concentration time - Google 検索

のグラフを見ていただくほうがいい。一般に言われるように"科学的には"人間の集中力(attention)は90分程度らしい。そしてそれをリセットするのに15分程度必要とのこと。

勿論こちら用いて読書時間を設定するのも良い。だがこれは集中時間(concentration time)のみの話なので、3時間という一応の下限がこちらにも必要になる。この設定を敷いた上で一定期間試験してみる。その結果、私のように3時間と少ししか読書できない人間もいれば、10時間読書できるという超人のような人間もいる。

 

そして氏の読書する環境づくりには私も賛成である。私はその環境づくりを考えるようになったのは

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この本が発端となる。尤も、ここで書いてあるのは環境づくりではなく意識作りのほうに比重が置かれている。

 

「勉強する場合、まず片づけから始めるのではなく目の前にあるものをどかしてでも始めるほうがよい」(うろ覚え)

 

そしてまた、勉強や読書に対するやる気が減退したときは偉人伝を読むのが良い。森鴎外らがナポレオンの偉人伝で身を据えたように、次は私たちも彼らの偉人伝で身を据えても良いはずである。この偉人伝の類で言えば

 

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というあたりが役に立つ。天才ではなくとも、天才の行ってきた方法は真似できるであろう、というのが「知的トレーニングの技術」の著者である長沼行太郎氏や私の持論である。

 

(↓ これは私の汚い机)

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この読書に関し、家でなかなかできない人は公共図書館の利用が良いだろう。書き込みができないので私はそれほど利用できていないが、やはり困ったときには役に立つ。

 

以前そのあたりのことを書いたので再掲

 

engi02reading08.hatenadiary.com

 

 

で、最初から最後まで乗月氏のブログに添った形で(考えてないという意味で)申し訳ないけれど、今回自分の読書に対する姿勢を改めて考えることとなった。このところ精神状態が極めて悪く、どうしたものか…という感覚すら浮かばなくなったが、そういうときは「サボってしまった死のう」ではなくて「今日明日はサボる日にして寝まくろう」という考え方が必要なのだろう。

また机上を見ていただければわかるように、読んでいる本があちこちに行く。これは同志を見習い、1冊2冊に絞って読むことにしようと思う。

 

読書に対する結論

  • PCや携帯は隔離、少なくとも手に取り難い場所に置く。(又は解約等)
  • 本を読むとき、目の前のものは退かすかその本以外ない空間に移動。
  • 偉人たちから折角学び取れるので、読書時間の最低は3時間にしておく(後で変更)
  • 図書館の自習室や読書用の場所も積極的に利用

 

友人論

以前にも私は「友人」とは何かというものを書いた。そこから更にこの話題がわたしの中で膨張拡大し、同時にその構造をも助けを借りることで発見するに至った。なので以前散り散りになっていて、それぞれが別のものにしか見えなかったものが、然るべき統一性をもって私の意識にやってきたのである。これは私にとって異常な事態である。

 

私には友人がいなかった。僻みではなく、中二病でもなく、ただ群れていただけで、馴れ合っていたのだ。集団に属していることで、自分の居場所を獲得したかのように誤認していた。これ自体はきっと悪いことではない、私が見てきた多くの人は群集の一要素として居場所を得ていたし、勿論その群集がある程度分裂した中でも今までどおりに動くことができていた。

では私はどうだったか。いや、私はということではない、私もその人間たちも「忘れて」いた。"人は本来孤独である"ということを。その人間たちがそれを敢えて見なかったかはわからない、どうであれ、知らない振りをしながらでも群れていられたのだ。そして何の躊躇いもなく集団の構成員同士のことを「友人」だと言う。

私にはそれがあまりに気持ち悪かった。その人間たちが、ただその場にいるだけで知り合い以上に思い込めてしまうこと、まるでそれを永遠の関係として獲得したかのように思っていること。

私がそれに「気付いて」から、私は一度「友人」というものについて考えてみた。一体どのような関係なのだろう、学校や職場などのコミュニティを抜けると同時に、自然消滅してしまうような安っぽい秩序なのだろうか。ただ上辺だけで簡単に放ててしまう「言葉」を安易に使い、その関係に疑問を持つこともせず、苦悩することもなく、絶望に陥ることもなく「友人」であると言い張るのだ。

 

「友人」は、私にとって、強固な関係なのだと思った。それは恋人への愛情に近い感情を抱き、互いの精神的困窮時に共に身を削って思考するような…そんな関係であろう。

 

私は、私の話を聞いてくれる人間とめぐり合うことがなかった。「聞く」ことは、ただ話を聞き、テンプレートとしての返事や、いとも簡単に搾り出せる返答を渡すことではない。「寄り添う」ことがなければ「聞く」ことは成立しない、親身であって、またそれと同様の苦しみを味わってきた、あるいは味わうであろう人間にしか許されぬものと言って良い。

人に話すということは、実は安易なようで、話をする必要があると感じた"緊迫した状態"なのだ。それは私の「死についての議論」であり「徹底的な『思考』についての議論」であり「絶望に呑まれたときの私」であったのだ。いったい今までに、誰がこれらに耳を傾けただろう。解答の出せぬものと一蹴するか、論旨をすり替えるか、その疑問をもつ私を糾弾、忌避してきた。これは私の両親とて、祖父母とて例外でない。私は疑問を持つことを許されなかったのだ。絶えず巡る思考を強制的に止めよということ、即ち死ねということである。

 

このような輩としか接しなかった私だ。なんの希望を抱けようか。これに理想的立場から寄り添ってくれるのが「友人」ではないか。そして前述のとおり、この話に寄り添うためには「己れに同様の、または類似した実存的体験」がされている必要があるのだろう。それは「気付き」「直視」「苦悩」から然るべくしてあらわれてくるのだ。

 

そしてこのような「友人像」を得た私は周囲との断絶から、自分が「異端者」であることを自覚するに至った。周囲の人間にはなかった思考過程、苦しみ、絶望、敵対。これらを全て、この身に受けているのだ。そして何よりもこの孤独に取り残されたことに嘆き苦しみ、しかしそこから脱しようとしないのである。これこそが、私が「異端者」である所以となる。

 

「異端者」こそがそれぞれの領域ではあるが、同じように苦しみ、嘆き、絶望する。そうした人間が互いに惹かれあうのはおそらく当然のことであったろう、そういった素養がなければ先ず私自身がその人間に惹かれない。その素養を、直観的に察知し、「友人」としての可能性を秘めていることに気付く。

私は「異端者」のみに己れを委ねることとなるだろう。

自意識と劣等感の狭間

ところで、ひとつ現実に返って、ぼくからひとつ無用な質問を提出することにしたい。安っぽい幸福と高められた苦悩と、どちらがいいか?というわけだ。さあ、どちらがいい?

 

これはドストエフスキーの「地下室の手記」の一節。久しぶりの更新でこんな始まり方はどうかと自分でも思うが、今の心境はそれどころでないから仕方ない。

ふとしたときに劣等感が私に襲い掛かってくる。己れの底から湧き上がってくるものではなく、いや本当はそうなのかもしれないが、何かしらの「像」によって相対的に呼び覚まされる。自尊心によって私というものは支えられているように思う。「おれには出来るはずだ。」「おれは賢いのだ。」「あいつらは何にも気づけていないのだ。」そんな具合だ。可哀想過ぎて見ていられない私の自尊心は、ふとそれを支えていた「虚実」「虚勢」の綻びと同時に崩壊した。

 

己れの真実を真っ直ぐ伝えることのできないままここまで生きてしまったのだ。誰に対してもである。

 

いつからか嘘偽りで繕われた自分は、あるとき真正面からやってくる正直者に殺されそうになる。全て自分の所為なんだと知りながら、それでもそれまでの自分を否定することはしない、後悔したとしても、だ。

結局私は尊大な自意識と自尊心(そしてそれは虚である)を持ちながら、それに知らない振りをしながら過ごしてきたということだ。何かのきっかけで絶望してしまう、それは己れ自身に対してであり、改善を要求するものでもない。ただそのときに絶望し、呆れ、自分の存在自体を疑い、劣等感に包まれていく。

もしかすると、私はこの劣等感こそ本質なのか。すべては「思い出してしまう」ことでの絶望か。ともなれば、この絶望は放つことが許されず、己れのなかで永遠に漂わせるしかない。

今までの自分を消し去りたい。記憶ともども、である。新たな自我として「私」を得たい。これまでの私は必要なかった、間接的に存在しただけであって、その本質は「虚」、ただの抜け殻、虚ろである。変える努力をせず、ただ足りないものを「虚」で補い、それに安っぽい幸福を得ていた。その安っぽさの自覚と共に「高められた苦悩」がやってきた。答えのない問い、「現在」ではどうしようもない苦痛。

 

偽ることでしか己れの在り処を見つけられなかった。私にかかわることは、すべて私の偽りに関わっている。

 逃避することしかできなかった哀れな男の姿。

 

節目

今週のお題「20歳」

という題目でブログを書いてみることにする。

 

私は今ちょうど20歳なので、このネタは他の人よりも鮮度が高いことが予測される。で、20歳といえば成人式が最も大きな行事なのだろう。しかし、成人式に参加しなかった私にとっては単なるニュースネタであって、直接経験として植えつけられるネタではなかった。

では私にとって20歳は節目ではなかったというと、そんなことはない。偶然か必然か、20歳はある意味で私にとっても重要な転機であった。それは以前から私の文章を読んで下さる方々にしてみれば、もう見飽きたことなのだが、折角なので(多分最後の)20歳ネタを再び書こうと思う。

 

「努力」というものをできなかった私は、高校受験に失敗し、大学受験もそれと似たような状態で、今はただのフリーターである。周囲の期待を悉く裏切り、親孝行もせず、全くもって生きるに値しない人間なんだろう。それはきっと他者からの視点なのであって、私自身の話が抜け落ちるのはアンフェアだろうから少し書かせて頂きたい。

私にとっては「今」というこの時点が重要らしい。過去に書いたように「生きる意味」とか「大学に行く意味」とか「友人が必要な理由」とか「死にたがりが忌避される理由」とか、いろいろあるけれど要するに「〇〇の理由、意味」が未来にそのまま関わってくるせいでまったくわからないのだ。両親や幾人かの知り合いに聞けばその答えはすべて「将来、未来」の想定をベースにしていた。「将来のための貯金」「安定職に就くための大学卒」とか、そういうあたりである。

彼らにとっては、それが当たり前で、考慮にも値しないレベルの前提だろうから、私の「現実直観」は意味不明に思われているに違いない。今我慢すれば将来は楽になるのだろうか?今楽したら将来は苦難が待つのか?そうした話に対して彼らは直ぐ「可能性」の話を持ち出す。可能性が高いから、みんなそうしているから。なら私たちの主体は想定されないのか?

 

私たち自身が何かをしたいという動機は心理的にも大きな効用を持つことは今更言うまでもない。だがそれは、主体的な夢や願望を叶えるためなのであって、そういう望みを持つ主体にとってその過程は本来なら楽しめるものなはずである。(私がそう)

それを安直に、可能性の高さや、安定という言葉に流されてしまうのはどうなのだろう。(莫迦にしているわけではなく『みんなそうしているからする』というのが嫌いなのだ〔主体性の欠如〕)将来のことなど私には割りとどうでもいいことであるし、自殺することへも否定的ではない、だから一応他者を遠ざけてきている。けれど人間とは不思議なもので、こうした社会的とは全く言えない思想を持っていると「世間」から後ろ指さされている気分になってくる。それでも変えるつもりはないのだけれど。

 

 

で、20歳になったとき私は「哲学」に出会った。それ以前も知っていながら、大まかな本質など掴めぬまま、その殻だけ知っていたが、哲学の本質に出会った私はさきほどまでの感覚を大きく揺さぶられるような思いであった。この「今」という問題に立ち向かう態度を哲学から感じ取ったのである。今ここにある問題に対し、世俗的な解を求めずにその本質に立ち向かおうとする態度は、社会的な人間には得られぬ経験なのだろうと今でも少し満足げに思っている。

「今」を問い、「社会」を問い、「意識」を問う。なにか目的を思ってそれを問うのではなく、わからないから問うし、世俗では納得できないから問うのだ。この態度はきっと、両親や、先程の知人にはわからないだろうから、私はその意味で特別なのだ。満足に「哲学」しようとすれば、大学機関や学会などを目指さねばならないだろうけれど、私はあくまで「独学」でこの「哲学」を満足したいという思いがある。誰かに導かれるのではなく、独断的に、(ある意味)反社会的に「哲学」を営むことが私にとっての至福で、また今の自分を初めて肯定的に受け入れられる要素でもある。

 

こういった人生での転機を、ひとつ、私は20歳で迎えた。だから成人という社会的な意味では私は20歳にもなっていないだろうが、内面的、精神的には20歳を迎えられたのだと安心する。

夜行性

いつからか夜行性になってしまった。22時ごろに寝ても1時~3時までに起きて、眠れなくなる。その間の読書はすこぶる捗るのだけれど、そろそろ日中にも目を開けていたいから無理にでも起きていたほうがよさそう。

今もこうしてカップ麺を食い終わり、エナジードリンクと数冊の本を持ち静かなリビングで読書を試みようとしている(たまに聞こえる母親の寝返りによる音が心臓にダイレクトに響く)

 

哲学史をそろそろやらねばということで、ギリシア哲学からぼちぼち始めた。数年前まで高校生であり、更に高校倫理を取っていたにも関わらず全くお勉強をしない(できない)人間だったためか、人名と命題くらいしか頭に残っていなかった、しかも曖昧。本を読み始めたのは去年半ばあたりからだし、それまで読まなかった反動か否か、1年弱で100冊近く購入することとなった。少しでも将来の貯金にと言われ始めたバイトの給料は大半がここにつぎ込まれた。

 

で、購入する本を見ているとやはり私の哲学的関心が何処にあるかが一応なりとも見えてくる。たとえば死とか、言葉とか、本質論とか、実存なんかがそれに当たる。で、気になるもんだからその周辺の本を増やしていくとどうしても抜け落ちてくる分野があるんです。プラグマティズムだとか、中世哲学だとか、現代哲学は分析哲学を除けばまったく無知です。そういえば、今月の『現代思想』がポスト現代思想やったんでちらちら見てたんですけど、いやほんとにまったくわからない。知識的な面で99%ほど欠如していたと思います。それでも数年以内には、あれを購読して何かしらつらつら書けたらなあ…とは思います。

で、偏ってることに気づいたのは本当に最近で、それからは哲学史を拒否反応起こしながら始めました。どうも歴史は苦手みたいで、履修当初は日本史世界史も大嫌いでした。あと、その哲学史を眺めながら自分の知識の欠如部分(先程の分野)に関する本と情報を蒐集したところ。

 

既に読み終えた本は書評を書きたい所なんですが、なかなか本が溜まるスピードが速すぎて書けない。20冊ほど溜まったら再読を兼ねて書評を書いてしまおうかな。

 

さっきも高校時代に触れましたが、やはり高校までにできなかったこと(私なら読書)は常に後悔として出てきますね。私の母校から大学に行った人たちはやはり勉強をしなかったことを悔やむ人が多かったです。私は高卒ですので、勝手に劣等感に苛まれ、独学を志して、哲学に偏ってしまったというだけですが。

はてなブログを通して、何かしら哲学に造詣のある人を巡っていたのですがなかなか見つからず。それでも明らかに常人ではない方々のブログを拝見し、襟を正して見させていただいています。もっと哲学的命題に関し何千字か書いてくださらないかな?期待をしながら私は読書して待ちます。

 

 

死・絶望

死とはなんだろうか。いや、死というよりも人間の内面から発生する死への渇望はいったいどういうものだろうか。考えるに、死にたい人間というのは逃避の最終手段として「自殺」という手段を用いる。死を選ぶ権利は平等に在る。(しかし死を与える権利は無い)

逃避の最終手段として死が選ばれる訳は、その後に「何もない」であろうという前提が想定されているからであろう。「死にたい」は「楽になりたい」であるというのは自明である、「楽になりたい」というのはつまり現在進行形でなにかしら精神的困窮を与えてくる要素からの脱出、つまり「無」への渇望と見做せる。

だが、死後の世界を無と無条件前提としてしまっているのはあくまで死後に自分の思惟や感覚が存在しないという下での話である。死後の世界を知って、更にそれが現世と同じ苦しみを味わおうものなら、どうであろう。死にたいと願うだろうか。

 

少なくとも日本で未だ仏教的思想が残っていた頃には、死はあくまで通過点であると考えられていた。輪廻転生がその最たる考え方であって、あの思想下では「自殺」はおそらく許されず餓鬼道か修羅道へまっしぐらだったろう。だから当時の人間たちは生きて善行を積むことが大前提だった。

現代ではどうか。私たち日本人の根本的仏教観というものはかなり薄れてきただろう。即ち私が言いたいのは、仏教が日本人の根底にしっかりとあった時代から、仏教観が薄れた科学実証主義時代の現在の間に「自殺」が個人内で是正される何かがあったというわけだ。

ある自殺学によれば自殺とは「自殺が最善の解決策と誤って認識された結果生じる行為」である。また、その自殺選択がたいてい「生きるか死ぬか」の二者択一であるということも重要な点であろう。生きるか死ぬかの二者択一というのは、当たり前なのだけれど、恐らくここで言いたいのは「生きると死ぬ以外に、趣味に没頭する、無心で働く、恋人や片思いの相手と過ごす、勉学に励むなどという苦痛を死以外の別方向によって見えなくする選択肢が用意されてない」ことであって、だからこそ「誤った選択」と述べられるのだ。(考え方からすれば賛成なのだけれど、希死念慮のもたらす盲目性は本人の歩み寄りと周囲の理解がなければならないだろうから、これを現代で行使するのはまだ難しい気がする。)

ここで挙げられる自殺への箴言

  • 合理的な自殺はない。しかし、急性の精神病状態の人にとって自殺は合目的。
  • 自殺を考えるのは異常ではない、唯一手段と考えるのが異常。
  • 自殺を愛に対する敵意と誤解してはならない。身もだえするほどの苦境への極度の苦悩と考えよ

などがある。ここに既に、死にたい人と、死にたいと思わない周囲への準敵対状態が形成されている。考えて見れば、死にたい人間というのは周囲の人間に甘えられない状態に陥っていることが多い。または、とても健全な生き方を出来ないほどの病を患っているか。たいていはこのふたつに当てはめられる。

 

ところで死にたいというのは、様々な「喪失」から来る。友情・愛情などの形は成さないが心的喪失を及ぼすものや、関係のある人間の死という実存的な亡び。周囲から虐げられることによって自分の居場所を喪失することからくる虚無。自分から直接見ないものの周囲や媒体によって必要以上に流れてくる様々な喪失を知ることから起こる、ただ悲しむ自分。自分が何を知っていて、何を知らないのかがわからなくなる…詰り内面的に既成されていたものがすべて綻ぶ喪失による思惟的盲目。

悲しみを付随するときがあれば、既に悲しみが枯れてしまっているときもある。

 

死への望みが濃くなるのはたいていー私の経験上の話になるがー絶望と言える何かを伴うときである。その絶望は必ず他者が関わり、影響を持つ。私的経験上、最もそれを苦痛として感じられたのは、やはり友人やペットを喪ったときである。若くして亡くした友人…私が確かなる友人として言えるのはこの人で最後ではないかとも思う。死人を友人と言ってしまうのはどうかと思うが、確かに友人であったのだ。そして友人と思い続けているのは「変わらない」からなのだろうか。人は生きてゆくうちにやはり変わらざるを得ない、環境が変われば人間関係も変化する、友人というのは私にはコロコロと変異するものではなく、確固として「友人」であって欲しいのだ。だから友人や親友と言うことにひどく抵抗がある。(この話は「永遠」を求める恋人間に似たものがあるだろう)

蛇足だった。死にたかった友人は望みどおり死を手にした。私はそれでよかったと思っている、心から。だがそう思っていても、こう書いていて、思い出せば再び当時の絶望は舞い戻り、私の眼を濡らそうとする。あの絶望はいったいなんだったろう。

 

絶望とは形を持たない、だからこそ絶望なのである。形を持った絶望とは、より具現化され、表層的意識として知覚される。(そしてそれはぜつぼうではない)絶望とは表層意識から溢れるものではない、深層意識(無意識)から本人の意思とは無関係に溢れてくる、なにか真っ黒な液体のようなものだ。(Fate/zeroで言えば聖杯の中身だと思ってくれればわかりやすい)本人が偽りの表層意識を持っていても、まったく無関係に絶望はもっと奥深くから現れる。どうしようもない嘔吐感、身体の硬直、恣意的思考の停止が私たちの身に及んでくる。その黒々とした液体は、わたしたちのこころから蝕み始め、身体全体を包み込んでくる。私たちが絶望を肌に感じられるのは、その身体を包み込まれた後である。どうしようもなく、救いようがなくなってから、はじめて私たちに「絶望」だと認知される。

また、そのときは完全に没主観的である。絶望を認知したときの私たちは、幽体離脱のような、自分とはまた別の自分から、本来の自分を眺めている気分に陥る。そして私たち自身にその絶望は取り払うことは出来ない、死者が蘇ったり、復縁したり、友情を取り戻したりなどせねば絶望消えない、いや絶望は消えずに私たちの表層で別のものに変わるだけなのだが。

 

ところで、私が思うに「失恋」はかなり最たる絶望になりうると思うのだがどうだろう。失恋後はたいてい、関わりを持たなくなる。下手すれば、二度と姿も声も見ないことになる。これは死者とのそれに似てはいないだろうか?勿論依存から孤独への変遷もあるから一概に言えないことであるが、この依存状態も、友人関係が良好でなかったり、社会的に孤独な立場の人間にばかり起こるものであるから、そのひとの依存性を咎めることもできない気がする。

 

 

こう書いていたら、なんだか私は死にたい人間を冷静に見つめている気分になる。また、これを読む人からしてもそう思われてしまっているかもしれない。だが私はれっきとした絶望の体験者であり、死にたがり経験者でもある。だから、死にたい人の気持ちはまったくその状態から疎遠なひとより、寄り添って考えられていると思う。しかし私は、決して幸福論者や生きたがりになったわけではない。人生は恐らく苦痛がほとんどだし、生きるか死ぬかの分かれ道に来たら躊躇せず死の道を選びそうなものだ。

言っておきたい、ひとは苦痛や絶望から目を逸らすために幸福を得たがるのだ。そして幸福の中に居る人間にはたいてい、ほとんど絶望の渦中にいる人間など見えもしない。友人(と思っている人間)が多いひとは、友達がいないと思っている人間とは相容れない。そういうものだ。いつだって、死や絶望から目を逸らし続ける人間と、私は関わりたくもない。