欲望・絶望

浮気は是か非か。何が浮気であるか。束縛の外側は浮気であるか。可逆性を保てているか、そうでなければ貴方を優位にするものは何か。

 

好ましく思っている人が、自分と違う人間と関わっていることに何処からか湧く憤りを覚える人は多いだろう。それは「嫉妬」と外部(言語含む)から称され、特に異性間に於いて(同性間でも起こりうる)恋やら愛やらと呼ばれる。めでたくその相手と交際することになると、何故かその相手を自分が所有しているような錯覚をする輩が居る。何を莫迦なことを、と思う。決して最後まで知る得ないであろう人間をあたかも知ったかのように、そしてその行動を規制しようとする。勿論そういう関係を求め合う者たちの間では結構だ、愉しんで欲しい。

 

私は相手が何者であろうと、その人間の自主性は何より尊ばれるものであると考える。浮気したい・色んな同性異性と遊びたい・殺したい・辱めたい…。そうした自主性は2タイプに分かれる。<私>が直接に関しているかである。浮気したい、はその当人と浮気相手Aとの関係にのみ完結する、ゆえに<私>は比較的近しい第三者であろう、この際私自身の許可等は特に関係がないように思う。交際関係は決して法ではなく、事前にそれを承認していればそれ以降の確認は必要がないように思う(気変わりしたら別)。しかし殺したい・辱めたいの場合、相手が<私>である限りでは相手と私の直接的対話によって求められるべきだろう。そこには自由対話に於ける欲望とその媒介についてよくよく話せばよかろう。因みに私は喜んで殺されてやると思う、たぶん。

 

こう色々と高みから書いてみたものの、実際にされるとどうなの?という問題はある。私は「絶望フェチ」なので、知られたくないことを知られたとき、なんとなく信じていた相手からの裏切りなんかは本当によく凹む。が、よく興奮もする。我ながら気持ち悪い。誰にも好かれたくなく、無関心か嫌悪を望む。さあさあみんな私を嫌え。

 

恋愛色恋沙汰をネットでもリアルでも見るが、なぜ大抵はどちらかが被害者ぶっているのだろう。人の気持ちを考えないのは悪、ならその人間は非難する人間のことをどれほどに考えようとしているのか。ロジックの問題ではない、自己批判能力が欠けていると私は見ている。自己を非難できても、批判できる人間は稀なようだ。その欠如を他人の批判、自分の擁護によって埋めようとする。ああ本当に醜い(自分も)。もっとカジュアルに、自由にしてもいいんじゃないか。いつかボロが出る関係ならば、早期に「所詮…」と思えるほうがいいんじゃないのだろうか。

 

 

寝こぼけ

前回の更新が78日前とはまるっと二ヶ月ブログを見てみぬ振りしていたらしい。なにはともあれ、とりあえず生きています。ただ自分の考えていた「蟄居」とはずいぶん遠いところにいるけれど、まあいずれ。

相変わらずの働きづめ、魂の労働。少しの間にヘーゲルヘーゲルヘーゲル、たまにそのほか。以前よりは自分の時間を確保できるようになり、読書に時間を割けるようになったかと思えばやはりそうではなく、私は読書が嫌いらしい。厭々読んでます。

 

ここしばらくを「人間関係」というカテゴリの中で生きていて、そうするとどうしても今までのように高踏的、というか夢幻的でいられなくなった。どうしても、ある種のヒエラルキーを持った関係の中で自分を位置づけるばかりになり、今まで確保していた「絶対精神的位相」の自分が薄れてきてしまったかなあ…なんて思う。その絶対精神てのは、ただ独り居るのみによってはっきり絶望し切れてしまう自分であったし、何者にも期待しない・されない異邦の者でもあった。

 

色んなことが無駄に思えた。クンデラではないが、無意味を祝すことはできなかった。他人は自分を理解しようと思わないし、自分も同様であった。とある共同体において自己の喪失はただ「マイナス1」なのであって、それ以上に何かを示すことは無い。関係の中に生きる自分らは数値であり、記号であった。こう考えていると、脱-自己状態のほうがずっとずっと生きやすいかもしれないとも思えた。でもそう考えられていても、あえて生き難くして生き、辛苦し続けるのは自分の性癖なのかもしれない。

 

もっと他人に嫌われたかった。このようなおれが好かれるなどと夢にも思わないが、好かれるのは甚だ面倒だ。期待を買うようなことはできれば避けたい(だが多くは避けられない)、やはり孤独万歳である。皆は自己愛に溢れており、そうでなくともたいてい自己本位、自己中心的である。何をもってしても他人が在るためには自分が必要でいて、その自分に先ず関心がゆくものであろう。ではこうしたことからの脱-事象は何であるかと言うと、極北的な滅私奉公(Selfless devotion)だ。自己本位的な人間が他人に関心を向けてもろくなことは無い、さっさと篭城してしまえばいいのに…と、こう言う自分こそがまさに同様の批判に当てはまる可哀相な奴だ。

 

「書くこと」から随分遠のいた。地味で即物的で俗物的な人間関係にばかり身を起き、自分を表現することが莫迦らしくなった。Ex-pressは内的なものを外に押し出すことによって成立する、その押し出す源はおそらく欲望と承認のどちらかだろう。そのどちらも見つけるに叶わなかった自分はin-pressである。

「無理をする」とは何か

18歳そこらの人間は、人生について大きな疑問を抱くことが多いだろう。人生の意味とは何か、将来の自分はどうなっているか。至極当たり前の疑問であり、それこそが「青春病」「激動の青春時代」などと言われる原因であろう。わざわざ期間に名称を付け、そう言うのであるから、きっと5年かそこらのうちに乗り切られてしまうようなことであるようにも思う。勉強もそうであるが、つらくてしんどい時にどれだけ負荷をかけて「何を」行うかによってその先の分岐点のうち、どのルートかに決定される。

 

自由意志云々の話には入りたくないので目を瞑りながら書くが、人生なんて自由なようで不自由(決定論的)な、そして決して万人受けすることのないゲームであるとおもう。「世界」という存在が恐らく唯一無変であるだろうにも関わらず、あるときは取り残されてるように感じ、あるときはまるで自分がその中心にいるように感じることがあるのは、その時点で「世界存在」とは人間を媒介にして相対的存在でもあるということになる。所詮そういうものであって、だからこそ「人生論」だとか「生き方」という、How ToのないものまでHow To化してしまうのだ。絶対的でなく、個人個人の差異があることを認めつつ、成功者に学び、模倣し、あわよくば自分もその成功者にならんとする。

 

そういう「人生論」に関する本の中では、とりわけ「努力」「考え方」が重要視されていると思う。尤も、私の母親が完全な精神論(患者)であったので、私はひたすらそれに反発してきた。それはいいとして、精神論は何がいけないか。それは先ず、論理的な裏づけが軽薄であることが多いからに思われる。例えば、理由A理由B理由C+一般的精神論という文構造がある場合に際しては、前項の論理的推量のほうが、後項の精神論を強度という観点から上回っている。価値観として「論理」が絶対視されてしまうことにはううんと首を捻ってしまうが、2000年相当の時の流れで中枢を担ってきた以上、強度を持つのは仕方ない。精神論というのは、おそらく格言や四字熟語、諺のように縮小化された項のみが残骸として残った結果ではないだろうか。例えばそれは、哲学の概説書のみを読むことで思想家が何をやったかをほんの数行でわかってしまうような気になってしまうものでもある。そのたった数行のために、一体どれくらいの人間と、金が費やされたかを考えてみれば、恐ろしいものだ。たったこれだけの理由によって精神論を否定するのは些か愚かなようなので、全面的に否定したくなったらまた考えることにする。

 

さて、タイトルはそんな精神論教育を受け続けた私が現状として抱えている大きな問題のひとつである。さまざまなものに対する「加減」というものを見失ってしまった。今では、逃避と、心身の破壊を目的に働いているようなものである。何故かといえば、単にストレスに起因する破壊衝動と苛立ちの矛先が自分にしか向かないということになる。ストレスの逃し方も知らなければ、休み方も知らない。人間としてのレベルが著しく低いようである。そして、私は今まで「無理をしたことがない」ので無理することがどういう状態なのかがわからない。本人が「もうこれ以上無理」というくらいまで切り詰めてやりきればその状態ではないか、と思ったりするわけであるが、私の心身は柄にもなく、自動ブレーキ機能搭載型(しかもブレーキが超早い)のでこれがなかなか難しい。早いところ身体にガタがきて欲しいのでけれど、これは私の0か10かの考え方によるものなのだろう。ああ、疲れた。

積読

2ヶ月弱ものあいだ更新をしなかった。脳内のOSが今までは更新されていたのだけれど、ここ2ヶ月程度OS ver.0.0998で止まっていた。更新に必要なキャリアが今の自分では不足だったらしい。無論、いろいろと負債(比喩)が溜まっている状態で読書などできるはずがなく、しかし本は増えていく。

 

たとえば最近増えた本で目の脇に積んであるのでは

岩波文庫 中国文学における孤独感、大乗起信論、明暗、行人、物質と記憶、エチカ、哲学の改造、ヘーゲルからニーチェへ。単行本だとポイエーシス叢書のデリダ著書3冊と、ほか3冊。言葉と物、ヘーゲル精神現象学(金子訳)、ヘーゲル読解入門、史上最強の哲学入門、羊皮紙に眠る文字たち、海の見えるポルトガル語の世界、THE HISTORY OF WESTERN PHILOSOPHY とか、そんなあたりである。肝心の冊数で言えば、恐らく80冊とかそのくらいだろう(数字にするとたったの2bitで済んでしまう!)

 

で、自分がいったい何に辛苦していたかがさっぱりわからない。失恋したとか、大学に落ちたとか、生きることの大変さを改めて自覚したとか、拠り所を見失ったとか、漠然と疲れてしまったとか、たぶんそんなところであろう。本格的な本業に従事するのは来年にすることにして、今年は惰性で生きることにしよう、と今ふと思った。今のところ魂の削り粕を金に換えているようなもので、もう少しやりかたがあってもいいなと思う。どうやら世間の多くは、親の脛を齧りながら就職まで食いつなぎ、それから「親孝行」の名目のもと徐々に返済に励む。大学を卒業していればほとんど奨学金の返済もあるだろうが。何が悲しくて努力を尽くして入った大学の、卒業と同時に多額の借金を負わなければならないのだろうか、大学に行く気力をなくしたのはそういう理由(あと単純に頭がよくなかったり、『頑張る』ことができないという)が大きかったりする。

 

ところで、まるであたかもこの記事を書いてる現時点においてアップデートされたわけではない。オールドタイプのままできることをやっているという。ここ2ヶ月は何ひとつ、知識として増えなかった実感(?)はある。そんなことも言ってられないので1ヶ月で英語、ギリシア語、ラテン語、ロシア語、サンスクリット語アラビア語、フランス語、ドイツ語のそれぞれをひと単語ずつくらい覚えてもよかったと思う。そういえば6月くらいに白水社からギリシア語テキストが出るらしい。

 

勿論自主的になのだけれど、仕事がヤバイ。遊びのない仕事は退屈だ、私は単純作業に向いていない。それに5時間くらい働いたらポンコツになってしまう。社会が求めていそうな「便利な人間」からは程遠い。ともなればメッチャ面白くて、割に合うかそれいじょうの給料を貰える仕事を探すほかない。さて何をしようか、とりあえず元手を作るために今いろんなものを犠牲にしつつ、生活を保ちつつやっているという現状。それを端的にではあるが伝えた仕事先のひとりが「いろいろ出来るんだから就職したらいいのに」と言っていたらしい。就職かあ…上記の条件を満たすところであればいいなと思えるが、そうでない限りは今の生活のほうがたぶんマシだろう。と、そんなことをしばらくウンウンと考えていたのだった(諦め切れないともいう)

 

さて、次は何か本を読んだ後にでも更新してみる。もっとも、本を読む時間とそれを整理する時間と書く元気が残っていれば、の話である。

不穏の書、断章 フェルナンド・ペソア

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「私はなぜ あらゆる人 あらゆる場ではないのか?」

 

 

ふと手に取る本に運命を感じることが多々ある。その運命に導いたのは自分の直感でしかないのだが、こういう直感というものはなかなか侮れない。

 

知る人ぞ知る詩人、フェルナンド・ペソアリスボンの生まれ。ポルトガルの詩人であるが、評価されたのは大量の遺稿が見つかってかららしい。

 

私はこのペソア、いやアルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスという人間に対して何を語れるのだろうか。訳者である澤田直曰く「ペソアは読者に憑く」と述べている。それは澤田氏がペソアを訳したいがためだけにポルトガル語を独学したという体験談からも感じ取ることができる。

本書は数ある異名のうち、ペソアにもっとも近いとされる ベルナンド・ソアレスと先ほどの複数人による詩である。もっとも、私にしてみればこれは箴言集であるように思えた。

 

詩人はふりをするものだ

そのふりは完璧すぎて

ほんとうに感じている

苦痛のふりまでしてしまう

 

 

人生において、唯一の現実は感覚だ。

芸術において、唯一の現実は感覚の意識だ。

 

 

あらゆる真の感動は、知性にとっては嘘だ。感動は知性の手から逃れてしまうから。

 

 

私たちのなかには 無数のものが生きている

自分が思い 感じるとき 私にはわからない

感じ 思っているのが誰なのか

自分はとはたんに 感覚や思念の

場にすぎないのだ

 

 

子どものころ、私は別人だった。今の私へと成長し、忘れてしまった。

いまでは沈黙と掟が私に属している。

私は得たのか、失ったのか。

 

 

今の私は、まちがった私で、なるべき私にはならなかったのだ。

まとった衣装がまちがっていたのだ。

別人とまちがわれたのに、否定しなかったので、自分を見失ったのだ。

後になって仮面をはずそうとしたが、そのときにはもう顔にはりついていた。

 

 

人生は意図せずに始められてしまった実験旅行である。

 

 

愛は永遠の無垢

唯一の無垢 それは考えないこと

 

 

ただ夢だけが永遠で美しい。それなのに、なぜあいもかわらず語り続けているのか。

 

 

 

印象的な部分を断章から引用した。悩める多くの人はこれを読みながら、自分がペソアになった気がしたのではないだろうか。悩みの対象があるわけではない、言い方を変えるならば空虚に対する思念が浮き続けているような感覚だろうか。少し憶測をするならば、ペソアは自分という存在に対してつねに哀しみを抱えていたのではないのだろうか。美と無と<私>が言葉を変えて次々に語られる、その光景は私たちがふと自分という出発点からさまざまに懐疑し、思索的に沈んでゆく姿と似る。

もう一人の自分が欲しいという願いは多くの人に「夢」という願望として持たれる気がするが、生きていくうちにその「夢」は悲観すべきものとして現実化される。あの頃思い描いた私という存在は、仮面をかぶり続けることによって成立した。しかし、内なる私を記憶によって否定的に呼び覚ましてしまうとき、二重人格というものは理想と現実の狭間で発生し、己れは行き場を失い彷徨う(=苦しみ)。

 

ペソアとは私たちのペルソナであるようだ。おそらくペソアの詩を読んだあとに、自分の思考がペソアによってなされていることに気づくだろう。私の記事を読む少数の人たちがペソアを手に取り、読むことで、自分の思考がいったい誰によってなされているのか(=ペソア化、ペソアウイルス)考え、悶え始める姿を想像するのは実に楽しい。私はこれからこのウイルスを抱えながら生きることとなるのだ。

 

さて、私は誰であろう?

 

 

 

 

自我

突発的な思いつき、だが経験的に有効であった人間関係からの一時的離脱を試みた。LINE、Twitterに多くの関係を依存していたがため、そこの関係を一時的とはいえ拒否するというのは孤独への渇望と相違ない。本来の友人、知人というあり方は「一度適当な関係になれば多くの場合その後も同様の関係を保てる状態」であるのではないか、と過去多くの人間と過ごしていた期間を思い返しながら考える。その友人という概念、そして関係へのあまりにも安直な結びつけが私には我慢ならなかった。つまり、こういうことを私と同様に対話することができる人、またはその対話の延長線に居る人に私は「友人」という概念を積極的に与えたいと思う。拡大的に歪曲すれば、考えない人は友人に入れたくない、という選民思想になるわけだ。あながち間違いでもないし、そうした文脈で語られるときの意味は「お前はなんと哀れな考え方をしているのだ」ということだ。だが私にとっての友人像は憧憬であり、夢でもある。今まで沈黙を守り何も反論せずに居た時期の感覚が、ようやく言語という形を得て内在し、意思として表されるようになった。友人が居ないことを蔑まれても構わない、私はようやく数少ない「私のあり方」を見つけるに至った。

 

この感動とは素晴らしいもので、見える世界が変わるというのはこういうことかと思わせてくれる。人生というものを今から語るとすれば、この「他者にまったく影響されない超越的自我の獲得の連続」ではないだろうか。以前から私は、人間とは本来孤独なものであるという持論を語っていた。自分―他人という関係は決して壊れることがない、またお互いに望んでいてもその溝は完全に埋まることはない(その溝が埋まるというのは、自分が相手になり、相手が自分になるということである)。そうした埋めることの叶わぬ関係であり、また多くの人はそこで葛藤し続けるのだろうが、そうしたとき、ふと「自分である」という不思議さに襲われるのかもしれない。なぜ自分は自分であるのか、この絶対的に近寄れない「他者」という部分はいかなるものなのか。

また、この葛藤によって「自分が何者であるか」というアイデンティティの不安を抱えるはずである。青春病、厨二病などという名で語られるこれは、その名を与えることで解決するものではないのだが、どうして彼らはその名によって安心するのか。それはともかく、私もそうして不安を抱え、他人によって生かされ、他人によって自分であり続けることになってしまうのかと思った。そうした境界を彷徨い続けることが「自分である」ことなのかと。この答えを私は「超越的自我」(即ち本来の「自我」)というものに見出すこととなったのだ。

 

たぶんこの不安を解消できた人というのは、何かしらの形で「超越的自我」を獲得し、不安にケリをつけられた人なのではないだろうか。それらは超越性ゆえに揺るがないものであるが、それを複数得ている人間がまれにいたりする。その人間の安定感は凄まじいもので、完全に自分という立ち位置を理解し、そこから受容も発散もすることができる。羨ましいものだ。

 

 

私には友人らしい友人が居ないので、また親しい関係にある人とも恣意的に距離をとっているので、ほとんど確かに孤独なのである。孤独は私にとって苦痛で、最近になってそのことに漸く気づいた。人とかかわるのが好きであったのに、変な拗れ方をしてしまった。だがこの孤独という条件で、私は私でありつづけられるのか?という面白い実験を思いついた。以前にも似たようなことをしたことはあるのだが、そのときのこれは意味をもたせることはなく、ただ逃避のツールとして使っていたに過ぎない。だが今の私には切迫したこれを行う必要が出てきた。この頃他人によって自分を縛っていることがわかり、私はそこに負荷をかけるかのように他人に依存した。その結果どうなったかといえば、死にたくなったのである。なんとも情けない話である。

人と会うというストレスの解消方法でもあった快楽が重荷になり、私自身を縛る要因になった。私のそれによって、少数ではあるが好きな人たちに不安と心配を与えることとなったのだ。この孤独環境の実験によって私がうまく生きることができれば(つまりストレスの解消を己れのみで行えるようになるということ)、是非ともその人たちに対する謝罪とともに、生死の狭間で彷徨うことがなくなったということを伝えたいと思う。

 

 

 

「新しいヘーゲル」 読み終わった

新しいヘーゲル 長谷川宏 

を読み終わった。

 

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著者の長谷川宏は、本屋でぐるぐると巡回しているとよく目にしていた人だったが、何気に著書を読むのは初めて。今日レーヴィットの「ヘーゲルからニーチェへ 上」と共に買ってきて、帰って読んだ。内容は平易で、入門書という位置付け。私はヘーゲルの思想は弁証法(という概念)しか知らないので、初学者として入門することにした。

 

さて、本書の内容をレジュメのように、簡単に、主に自分のために纏めようと思う。「本が好き!」の方に投稿してもいいのだけど、私的利用価値の面で避けておく(簡易化して投稿するかもしれない)。

 

 

 

本書を通じて感じたことは、ヘーゲルの思想は主に「精神」に重きを置かれている。「精神現象学」がその証明である。そしてこれは、私が日ごろ思索する対象としての「意識」というものに密接に関わっていることがわかってきた。というのも、哲学書とは私や過剰な知的錯綜に襲われる人間にとって、丁度その主題が描かれているものだ。だからこそ哲学というのは「現象学」「時間論」「実存主義生の哲学)」というふうに大別され、およそ関心がそれぞれを行き来することになる。

 

さて本書の内容に入る。

ヘーゲルはむずかしいか?」という題目から始まる。ヘーゲルはたぶん難しい、だが難しくさせた原因はどこにあるだろうか。それは西洋崇拝をしてしまった日本風土にあると著者は言う。「観念」「論理」「思想」「社会」「自由権」などの哲学用語が明治時代に急速に輸入され、その翻訳に日本のエライ人たちが追われたことは容易に目に浮かぶ。これが時間と共に日本の風土と結びつくと思えば、そうはならなかった。西洋崇拝の中に哲学が組み込まれていたからである、人というのは崇高なものを解り易く、また自分と同位置に置いたりしない…という考えがその当時からあったようだ。だからこそ現代でも哲学というのはどこか忌々しさを与え、近寄りがたい印象を受けさせてしまう。これはもう、今後の翻訳者たちの力量に頼るほかないと思われる。

 

さて、ヘーゲルは翻訳されて難解になったのか、それとも元から難解なのか。長谷川氏曰く、ヘーゲルの著書を原語で読むことは難解ではない。内容を辿っていくと処理しきれない部分はあるものの、その内容は「難解さ」を生み出そうとするものではなかったと言う。これは中世哲学から近世哲学への変遷に原因を見出すことができる(即ちキリスト教からの解放)。権威を脱するところからの思索があり、そこに出来上がった哲学が同じく権威を脱した一般市民に伝わらないように書かれるだろうか?この対極として19世紀ロシアを思い出す。権力により支配され、書物も検閲を通してしか出版できなくなった。だから当時の文人たちは(頭の悪い)検閲官たちを掻い潜るため、内容にさまざまな手を加えたことだろう。だがこれを同様の支配下にあった市民たちが理解できなかっただろうか?そんなことはあるまい、同じく自由を渇望し、支配への抵抗があった彼らはそれら書物を理解できたはずである。

 

次にヘーゲル弁証法について語られる。

(前略)社会の弁証法では、むしろ、総体性の成立があやうくなるほどに否定の力が強調されねばならないのだから。個と共同体が徹底して対立し、矛盾するのがヘーゲル弁証法的な社会像なのだ。 

 「弁証法」を日本の文脈で汲み取ると、どうしても「和」というイメージが混入する。しかしヘーゲルの用いる弁証法、及びその内約はそのような暖かいものではない。歴史的に見て個人らは徹底的に神や王権、君主といったものと対立してきた。個はその支配に迎合してこなかった、つねに対立を選んできたのである。ヘーゲル弁証法とは、そういった歴史的に過激な二項対立を立脚点とし構想されたのである。

 

その青年ヘーゲルはその弁証法の先に何を望んだのだろう?それは古代ギリシアのポリスであった。抑圧の社会ではなく、集団的な自由の内包された世界を望んだ。

 

それは、個々人がばらばらに自己主張をくりかえすような社会ではない。個々人はその思考においても行動においても、共同体のしきたりや規範や通念をごく自然に受けいれてふるまい、共同体もそうした個人をゆったりと包み込んで存在する。個として生きることがそのまま共同体精神を体現して生きることであり、個々人の生きかたのうちにおのずと共同体精神が生きているという、そういう社会がヘーゲルのあこがれた理想のギリシャ社会であった。 

 

このヘーゲルの憧憬を呼んでいると、私には同じくギリシアに対する憧れを発し続けた井筒俊彦が思い起こされる。彼は神秘哲学者(これはヘーゲルと対立する対場であろうが)として「私のギリシア」―それはヘーゲルのあこがれる、ギリシアの生活、共同体の根底として流動的な哲学的思惟が存在することに発見―を得たのだった。近いうちにこの両者のギリシアに対する憧憬を描いてみたいものだ。

 

話は逸れたが、この憧れとしてヘーゲルは「精神」の読解を図ろうとする。そこで書かれたのが「精神現象学」である。その序文を見てみると

 

自然のままの意識は、知はこういうものだと頭に浮かべているだけで、実際になにかを知っているわけではない。が、にもかかわらず、意識は自分が実際に知識をもっているとつい思ってしまうから、知への道は自分を否定するような意味合いをもち、本来の知の実現が意識にとっては自己の喪失だと思えてくる。知への道は、意識の思いこむ真理が失われていく過程なのだから。したがって、知への道は疑いの道であり、もっといえば絶望の道である。 

 

先に言ってしまうと、ヘーゲルが序文で「知」を強調するのは最終的な「絶対知」のためである。絶対知とは概念的に思考する知、それを得ることで支配を受けることなく、冷静に現実の総体を見定めることのできるものである。また彼にとってそれは、学問の世界への到達でもあった。なぜ彼がそれほどまでに絶対知を重視したか、それは近代哲学がまさしく絶対知、理性の時代だったからだ。デカルトによって歩みだした近代哲学は主体と理性の絶対性を認めた上に、さまざまな思索を深めてゆく。ヘーゲルもその一人であって、絶対知という理性の獲得によって学問の世界を深めていこうとする。

 

意識が本当のありさまにまで突きすすむと、意識のまわりにあるものが意識とはちがう異質なものだという事態が消滅し、意識にあらわれるものと意識の本質とが一致し、意識の表現がまさしく本来の精神の学問と合致するような、そういう地点に意識は到達する。このように、意識がみずからおのれの本質をとらえるに至ったとき、そこに絶対知というものがすがたをあらわすのである。 

 

ここで私は井筒俊彦を再び思い出すことになる。彼だけではない、マラルメフロイトも同様にである。井筒で言う「本質直観」、マラルメで言う「輪郭の消失」、フロイトの「無意識の構造」がこれに比類している。4人は共通して「意識」という在り処を探り、それを変容的に、あるいは構造的に捉えようとしているのである。

 

ヘーゲルの理性への信頼は先程も言ったように、近代哲学による流れの一環にある。デカルト、ベーコン、スピノザライプニッツ、ロック、ヒューム、カント、フィヒテシェリング等。世界、人間のあらゆる難問は理性によって考え尽せるのだと考えていた。「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である。」ということだ。その中でもヘーゲルは飛びぬけて理性への信頼が厚かったことは知っておかねばならない、彼は理性によって全て解決できるはずと考えている。

 

 

 

さて、私としておよそヘーゲルを掴み始めたと感じたところで、彼以後の話も引用しておく。まずキルケゴールとの対立。キルケゴールは厭世的である、ヘーゲル弁証法の発端として思考の本質からしてまず同時に否定が生まれると言っているがそれを体現したような人物である。ヘーゲルにとって不安などのマイナス感情は成長によって克己されうるものとされる、しかしキルケゴールはその不安という感情にこそ本質を見出した、孤独や絶望というものに寄り添う彼の思想はのちにサルトルらに引き継がれる。この両者の違いは、否定的要素を主題に置くか否かであって、これはもはやどちらに正当性があると言うよりは経験則や実体験としてどちらかという話になるだろう。また先程にも出てきたフロイトも、ヘーゲルとは別方向で意識の構図を描いたという点で、対位置に居る。

 

私の場合は「意識」というもとからの主題があったおかげで丁度私が歩んできている思想の数々を思い描きながら読むことができた。これらの「意識論」と呼べうるものを解釈、選択し、私も私なりで意識についての図を描いてみたい、と思った。

 

おしまい。