自己問答夜

「苦しさは何処からやってくるだろう」

 

―兎にも角にも「すれ違い」から来る。理想と現実のすれ違い、自分と相手のすれ違いのどちらかに大別することができるだろう。苦しさの解消には「時間」か「変革」が必要になる。今の私は「変革」を行おうとしている。間延びが地獄であることをしっているから、もがき続け、足掻き続けようとする。その苦しさをふと未来から眺めてみると、実は幸せであったと気付く。実地な積み重ねの作業が、自分の変化をよく感じられ、諦念に囚われないための実用的な方法である。

 

 

「努力ってなんだろう」

 

―世のため人のため、誰かからの承認を必要とする語彙である。自分で自分を努力したと褒めてあげられる人は一流である。だがそうした人であろうと、何かしら外の世界に放り出されると何をしているかわからない人になったりする。実務的なことと、観念的なことを行う私は別物だ、そう考えるのが追々楽になる秘訣だと思う。でも、そうした分け隔てが出来ない人、嘘をつくことが出来ない人は、延々と「努力・頑張り」という他者からの悲惨な言葉に身を黒く染め上げていってしまう。仕舞いには、自分と云う主体を信じることが出来ない、私が何者であるかわからない、誰かの顔色によってしか生活できない人、というふうになりかねないものだ。努力とはそれほどに、強烈で、怖い言葉でもある。

 

 

「言葉ってなんだろう」

 

―第一義的には、ツールである。人に伝えるにも、部分的に自分へ伝えるにもこれは必要になる。言葉同士がどこかに漂着し、新たな意味を生む。そうした自己生成によって生まれてくる言葉は、意味と云う沃野をさらに肥やしてしまう。そこから育つ木々植物は肥大化し、さまざまに分割され、分節する。同じ実を食べたものは同じ世界を共有し、異なる実を食べたものとは世界を隔てることになる。世界を隔てた者と、ある世界を共有するには同じ実を食べるしかないのだが、みんな一向に食べようとしない。異質なものを受け入れない、認めたものしか受け入れない、迎合をプライドと同次元で考えようとする。

 

 

「孤独ってなんだろう」

 

―いつか立ち返る位相である。肯定的に立ち返ればその孤独は有意義な孤独である。孤独である以上その空間での承認は自分自身の承認であり、そこでの否定は自己否定である。しかし、己れしか存在しない空間での否定は相当に有害である。であるが、肯定的に選び取った孤独を有するものには、そんなことは言うまでもないことだろう。否定的に立ち返ったものは、ひたすらそれと戦うことになる。見たくないものを見続け、弱り、それでも諦めることを許されない空間に身を投じることとなる。そうした生き方しか出来ない、不器用な人間だって居るのだが。それは私のようであり、過去の孤独な者たちでもある。

多数決

社会の多くは「多数決」を根底に持っていると思う。政治材料、政治史などを例に出さなくともそれはおよそ感じられる人が多いのではないだろうか。「多数決」とは「普遍・普通」「常識」にほぼ等しい意味を、私はここで使う。さらにこの「普遍性」は道徳感情や倫理心と結びつけて無言語下に暗喩されているようにも思える。ホットなテーマとして自分自身の体験があるので、一部改変しながら持ち出してみようと思う。

 

私は非-常識人で、ちょっとした道徳心は持ち合わせているものの、実社会を生きていくうえでの公的感覚(そんなのあるのだろうか)を持ち合わせていないようだ。これを病気に還元するのは簡単だが、いかんせん「中途半端」なものだから恐らくそこには帰着しない。例えば、寝坊して遅刻したりしてもどうも寝坊はなくならない。10を3には出来たが、1を0にはできなかった。そしてこの10を3に減らした私が、再び寝坊したとしよう。それに謝罪を求められる、10から3の努力は認められず、1か0かの世界で計られることになる。

当たり前なのだが、これが実社会の平均的様相である。

 

別の例を出そう。ある共同体の中に於いて、それぞれ役割が振られる。料理人、給仕人、支配人、案内人…諸々。私が立ち仕切る世界ならば、それぞれはそれぞれのことを行えばよい。それであるのに、どうも口出ししたがる人間が居る。そしてそういう人間はどうも「共通認識としてこれはすべきことだろ」と言う訳だ。常識ある人間は、それ以外の認識方法を持たないようで、自分の優位なようにしか解釈を行わない。その共同体で重要なことが何であれ、意見交流、指摘、反論、問題化…は一定のループである。そこの中で人間存在自体が問題視されるのであれば、その人間は疎外、迫害されるべきであるというのが「本音」の通常である。だが、こう簡単に割り切れるなら問題は起こらないのである。その人間には大きな問題があるが、存続してもらう必要がその共同体理念的、あるいは実物的にある場合であったり、その人間を格好の餌食として弱者と見做し、非難罵倒中傷、そして暴力し、自らの優位性を見せしめることもある。

 

これらはそれぞれ、私には最低最悪の構造であり、悪しき「常識理念」であると感じる。

といいたいところだが、多数決のよくないところはこの「多数決」を批判している自分が相対化され、懐疑に陥ってしまう点であろう。今はそんな細かい話は置いておこう。

 

 

なぜ、多くの人は謝罪を求めるのか。謝罪とは屈服ではないのだ、その人間の指摘されうる点を認め、更にそれによってある人間が実物的かつ精神的なダメージを負ったときにされるものだ。そこには「共同体」も「お客様」も介入させるべきではない、個人対個人になされるものであり、個人対共同体はありえない。これは神への懺悔と同じではないか。世の中で、狂っていると思われる多くの共同体では、謝罪が軽量化されすぎである。谷崎も言っていたが「日本語と云うものは相手を敬い、己れを卑下する言葉は驚くほど豊富」なのである。日本語は使用者を間違えると堕落した言語になる。

 

ごめんなさい、すいませんも言えない子は人としてどうなのか。というような教育、己れのプライドを損した事事を、他者にしか求めない愚かさ。そして生き殺しのようにその場には居座らせようとする鬼畜。さて、私は間違えているのか?

愛書狂

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9月も後半である。過去記事の日付を見るたびに1ヶ月以上経過していて妙な感じだ。以前より本を読めるようになったし、買う本も減った。ただずっと仕事漬けになっていて、睡眠障害のような症状が出たり、入院したり、仕事で神経をすり減らしたりしていた。ああ仕事したくねえ、適当にやって適当に稼ぎてえ。と思ったので、生活レベルを下げて読書に打ち込むことにした。

以前まで精神が居場所を欲して泣いていたのに、ずっと我慢させていると文句を言わなくなってきた。えらい。一人遊びが上手になり、空想上の友人を作り上げて対話訓練をしたり、愚痴を言い合ったり、今後の指針について話し合うようになった。そうすると不思議なことに、最低限だと思っていた人間関係をさらに絞ることができ、省エネにつながってきた。

 

とりあえず今月もあと少しなのだが、今までの読書傾向からすると1冊も読み終わらないだろうから、いっそ数冊に絞って順番に読んでいく事にする(上 写真)。究極的に飽きが早く、本なんかで言えば前書きを読んで飽きることもある。ちょっとこれではよくない気がしたので「すべてのページに風を通す」くらいの気持ちで読み通してみたいと思う。

 

 

ブログもいつの間にか月単位での更新になってしまっているので、最低でも2週間に1度は更新するようにしたい。自分の行動に期日を求めるタスクを若干組み込み、そこを行動修正の基点にしようと思う。ここで悲しいことばかり書いても仕方ないので、書くのは今まで通り読んだ本の若干や、深化させられそうな思い付きになると思う。ともあれ、下書き無しで書くので薄っぺらいかと思うが、それくらい軽い気持ちで書いたほうが続くだろう。

欲望・絶望

浮気は是か非か。何が浮気であるか。束縛の外側は浮気であるか。可逆性を保てているか、そうでなければ貴方を優位にするものは何か。

 

好ましく思っている人が、自分と違う人間と関わっていることに何処からか湧く憤りを覚える人は多いだろう。それは「嫉妬」と外部(言語含む)から称され、特に異性間に於いて(同性間でも起こりうる)恋やら愛やらと呼ばれる。めでたくその相手と交際することになると、何故かその相手を自分が所有しているような錯覚をする輩が居る。何を莫迦なことを、と思う。決して最後まで知る得ないであろう人間をあたかも知ったかのように、そしてその行動を規制しようとする。勿論そういう関係を求め合う者たちの間では結構だ、愉しんで欲しい。

 

私は相手が何者であろうと、その人間の自主性は何より尊ばれるものであると考える。浮気したい・色んな同性異性と遊びたい・殺したい・辱めたい…。そうした自主性は2タイプに分かれる。<私>が直接に関しているかである。浮気したい、はその当人と浮気相手Aとの関係にのみ完結する、ゆえに<私>は比較的近しい第三者であろう、この際私自身の許可等は特に関係がないように思う。交際関係は決して法ではなく、事前にそれを承認していればそれ以降の確認は必要がないように思う(気変わりしたら別)。しかし殺したい・辱めたいの場合、相手が<私>である限りでは相手と私の直接的対話によって求められるべきだろう。そこには自由対話に於ける欲望とその媒介についてよくよく話せばよかろう。因みに私は喜んで殺されてやると思う、たぶん。

 

こう色々と高みから書いてみたものの、実際にされるとどうなの?という問題はある。私は「絶望フェチ」なので、知られたくないことを知られたとき、なんとなく信じていた相手からの裏切りなんかは本当によく凹む。が、よく興奮もする。我ながら気持ち悪い。誰にも好かれたくなく、無関心か嫌悪を望む。さあさあみんな私を嫌え。

 

恋愛色恋沙汰をネットでもリアルでも見るが、なぜ大抵はどちらかが被害者ぶっているのだろう。人の気持ちを考えないのは悪、ならその人間は非難する人間のことをどれほどに考えようとしているのか。ロジックの問題ではない、自己批判能力が欠けていると私は見ている。自己を非難できても、批判できる人間は稀なようだ。その欠如を他人の批判、自分の擁護によって埋めようとする。ああ本当に醜い(自分も)。もっとカジュアルに、自由にしてもいいんじゃないか。いつかボロが出る関係ならば、早期に「所詮…」と思えるほうがいいんじゃないのだろうか。

 

 

寝こぼけ

前回の更新が78日前とはまるっと二ヶ月ブログを見てみぬ振りしていたらしい。なにはともあれ、とりあえず生きています。ただ自分の考えていた「蟄居」とはずいぶん遠いところにいるけれど、まあいずれ。

相変わらずの働きづめ、魂の労働。少しの間にヘーゲルヘーゲルヘーゲル、たまにそのほか。以前よりは自分の時間を確保できるようになり、読書に時間を割けるようになったかと思えばやはりそうではなく、私は読書が嫌いらしい。厭々読んでます。

 

ここしばらくを「人間関係」というカテゴリの中で生きていて、そうするとどうしても今までのように高踏的、というか夢幻的でいられなくなった。どうしても、ある種のヒエラルキーを持った関係の中で自分を位置づけるばかりになり、今まで確保していた「絶対精神的位相」の自分が薄れてきてしまったかなあ…なんて思う。その絶対精神てのは、ただ独り居るのみによってはっきり絶望し切れてしまう自分であったし、何者にも期待しない・されない異邦の者でもあった。

 

色んなことが無駄に思えた。クンデラではないが、無意味を祝すことはできなかった。他人は自分を理解しようと思わないし、自分も同様であった。とある共同体において自己の喪失はただ「マイナス1」なのであって、それ以上に何かを示すことは無い。関係の中に生きる自分らは数値であり、記号であった。こう考えていると、脱-自己状態のほうがずっとずっと生きやすいかもしれないとも思えた。でもそう考えられていても、あえて生き難くして生き、辛苦し続けるのは自分の性癖なのかもしれない。

 

もっと他人に嫌われたかった。このようなおれが好かれるなどと夢にも思わないが、好かれるのは甚だ面倒だ。期待を買うようなことはできれば避けたい(だが多くは避けられない)、やはり孤独万歳である。皆は自己愛に溢れており、そうでなくともたいてい自己本位、自己中心的である。何をもってしても他人が在るためには自分が必要でいて、その自分に先ず関心がゆくものであろう。ではこうしたことからの脱-事象は何であるかと言うと、極北的な滅私奉公(Selfless devotion)だ。自己本位的な人間が他人に関心を向けてもろくなことは無い、さっさと篭城してしまえばいいのに…と、こう言う自分こそがまさに同様の批判に当てはまる可哀相な奴だ。

 

「書くこと」から随分遠のいた。地味で即物的で俗物的な人間関係にばかり身を起き、自分を表現することが莫迦らしくなった。Ex-pressは内的なものを外に押し出すことによって成立する、その押し出す源はおそらく欲望と承認のどちらかだろう。そのどちらも見つけるに叶わなかった自分はin-pressである。

「無理をする」とは何か

18歳そこらの人間は、人生について大きな疑問を抱くことが多いだろう。人生の意味とは何か、将来の自分はどうなっているか。至極当たり前の疑問であり、それこそが「青春病」「激動の青春時代」などと言われる原因であろう。わざわざ期間に名称を付け、そう言うのであるから、きっと5年かそこらのうちに乗り切られてしまうようなことであるようにも思う。勉強もそうであるが、つらくてしんどい時にどれだけ負荷をかけて「何を」行うかによってその先の分岐点のうち、どのルートかに決定される。

 

自由意志云々の話には入りたくないので目を瞑りながら書くが、人生なんて自由なようで不自由(決定論的)な、そして決して万人受けすることのないゲームであるとおもう。「世界」という存在が恐らく唯一無変であるだろうにも関わらず、あるときは取り残されてるように感じ、あるときはまるで自分がその中心にいるように感じることがあるのは、その時点で「世界存在」とは人間を媒介にして相対的存在でもあるということになる。所詮そういうものであって、だからこそ「人生論」だとか「生き方」という、How ToのないものまでHow To化してしまうのだ。絶対的でなく、個人個人の差異があることを認めつつ、成功者に学び、模倣し、あわよくば自分もその成功者にならんとする。

 

そういう「人生論」に関する本の中では、とりわけ「努力」「考え方」が重要視されていると思う。尤も、私の母親が完全な精神論(患者)であったので、私はひたすらそれに反発してきた。それはいいとして、精神論は何がいけないか。それは先ず、論理的な裏づけが軽薄であることが多いからに思われる。例えば、理由A理由B理由C+一般的精神論という文構造がある場合に際しては、前項の論理的推量のほうが、後項の精神論を強度という観点から上回っている。価値観として「論理」が絶対視されてしまうことにはううんと首を捻ってしまうが、2000年相当の時の流れで中枢を担ってきた以上、強度を持つのは仕方ない。精神論というのは、おそらく格言や四字熟語、諺のように縮小化された項のみが残骸として残った結果ではないだろうか。例えばそれは、哲学の概説書のみを読むことで思想家が何をやったかをほんの数行でわかってしまうような気になってしまうものでもある。そのたった数行のために、一体どれくらいの人間と、金が費やされたかを考えてみれば、恐ろしいものだ。たったこれだけの理由によって精神論を否定するのは些か愚かなようなので、全面的に否定したくなったらまた考えることにする。

 

さて、タイトルはそんな精神論教育を受け続けた私が現状として抱えている大きな問題のひとつである。さまざまなものに対する「加減」というものを見失ってしまった。今では、逃避と、心身の破壊を目的に働いているようなものである。何故かといえば、単にストレスに起因する破壊衝動と苛立ちの矛先が自分にしか向かないということになる。ストレスの逃し方も知らなければ、休み方も知らない。人間としてのレベルが著しく低いようである。そして、私は今まで「無理をしたことがない」ので無理することがどういう状態なのかがわからない。本人が「もうこれ以上無理」というくらいまで切り詰めてやりきればその状態ではないか、と思ったりするわけであるが、私の心身は柄にもなく、自動ブレーキ機能搭載型(しかもブレーキが超早い)のでこれがなかなか難しい。早いところ身体にガタがきて欲しいのでけれど、これは私の0か10かの考え方によるものなのだろう。ああ、疲れた。

積読

2ヶ月弱ものあいだ更新をしなかった。脳内のOSが今までは更新されていたのだけれど、ここ2ヶ月程度OS ver.0.0998で止まっていた。更新に必要なキャリアが今の自分では不足だったらしい。無論、いろいろと負債(比喩)が溜まっている状態で読書などできるはずがなく、しかし本は増えていく。

 

たとえば最近増えた本で目の脇に積んであるのでは

岩波文庫 中国文学における孤独感、大乗起信論、明暗、行人、物質と記憶、エチカ、哲学の改造、ヘーゲルからニーチェへ。単行本だとポイエーシス叢書のデリダ著書3冊と、ほか3冊。言葉と物、ヘーゲル精神現象学(金子訳)、ヘーゲル読解入門、史上最強の哲学入門、羊皮紙に眠る文字たち、海の見えるポルトガル語の世界、THE HISTORY OF WESTERN PHILOSOPHY とか、そんなあたりである。肝心の冊数で言えば、恐らく80冊とかそのくらいだろう(数字にするとたったの2bitで済んでしまう!)

 

で、自分がいったい何に辛苦していたかがさっぱりわからない。失恋したとか、大学に落ちたとか、生きることの大変さを改めて自覚したとか、拠り所を見失ったとか、漠然と疲れてしまったとか、たぶんそんなところであろう。本格的な本業に従事するのは来年にすることにして、今年は惰性で生きることにしよう、と今ふと思った。今のところ魂の削り粕を金に換えているようなもので、もう少しやりかたがあってもいいなと思う。どうやら世間の多くは、親の脛を齧りながら就職まで食いつなぎ、それから「親孝行」の名目のもと徐々に返済に励む。大学を卒業していればほとんど奨学金の返済もあるだろうが。何が悲しくて努力を尽くして入った大学の、卒業と同時に多額の借金を負わなければならないのだろうか、大学に行く気力をなくしたのはそういう理由(あと単純に頭がよくなかったり、『頑張る』ことができないという)が大きかったりする。

 

ところで、まるであたかもこの記事を書いてる現時点においてアップデートされたわけではない。オールドタイプのままできることをやっているという。ここ2ヶ月は何ひとつ、知識として増えなかった実感(?)はある。そんなことも言ってられないので1ヶ月で英語、ギリシア語、ラテン語、ロシア語、サンスクリット語アラビア語、フランス語、ドイツ語のそれぞれをひと単語ずつくらい覚えてもよかったと思う。そういえば6月くらいに白水社からギリシア語テキストが出るらしい。

 

勿論自主的になのだけれど、仕事がヤバイ。遊びのない仕事は退屈だ、私は単純作業に向いていない。それに5時間くらい働いたらポンコツになってしまう。社会が求めていそうな「便利な人間」からは程遠い。ともなればメッチャ面白くて、割に合うかそれいじょうの給料を貰える仕事を探すほかない。さて何をしようか、とりあえず元手を作るために今いろんなものを犠牲にしつつ、生活を保ちつつやっているという現状。それを端的にではあるが伝えた仕事先のひとりが「いろいろ出来るんだから就職したらいいのに」と言っていたらしい。就職かあ…上記の条件を満たすところであればいいなと思えるが、そうでない限りは今の生活のほうがたぶんマシだろう。と、そんなことをしばらくウンウンと考えていたのだった(諦め切れないともいう)

 

さて、次は何か本を読んだ後にでも更新してみる。もっとも、本を読む時間とそれを整理する時間と書く元気が残っていれば、の話である。