意味の構造

言語と意味は切り離せないものとなっている(それに従われている)

言語を使用する際には自分の中で意味の使用を取り決め、それを外部へと送り出す。

では意味の使用の取り決めはどのように行われるか。学習プロセスとでも言っておけばそれっぽいが、それでは答えになっていない。

 

われわれはいつの間にか知らないところで拾ってきたフレーズを使用している。それだけではない、日本語文法を知らないままでも新たな語彙を組み込んで自由に文をつくることができる。しかし、適当な文と、ナンセンスな文がある。これは日本語文法から則って説明されるべきであろうが、われわれが使用するにあたっての思考プロセスの説明にはならない。

 

さらに言えば、意味を固定化するための文構造さえ逸脱したものをわれわれは使用する。

 

あの人は電車で眠っている。

これはわかる、単独で用いられてもその様子を想起することが可能であるだろう。固有名詞で主語を規定しなくてもよい例。

 

あの人は言語哲学の教授だ。

この場合はどうか。想起は可能だろうが、固有名詞をある程度限定しなければならない例だと思う。眠らない人間はいないから固有名詞による主語の規定は必要ないが、教授は全員ではないので制限が必要になる。

 

ここはまだ考えれば何故かを導き出せる。

 

しかし

 

お茶!

これはどうか?ヴィトゲンシュタイン哲学探究(未読了)の前半で出てくる話である。これだけで私たちは、お茶を指している、お茶を要求している、お茶を買ってくる、お茶の在庫切れ、好きな飲み物…を想起することができてしまう。

 

言語というのは思うに(私の感覚であるが)相手に伝えるためのものだから、曖昧ではならないと思っている。情報を伝えるのだから、相手にそれがまったく受け取った通りに伝わらねばならない。であるが、それはあらゆる分野で可能なわけではなく、特に哲学においては自己の内面を表記するものであるから、より繊細な表現が求められるのだ。しかし現実としては、多方面の解釈が行われ、論争もたびたび起きる。これはどこに原因があるのか。言語は完全なるものとし、表記者の技量が不十分か、それとも言語はただひとつ情報を伝えることができないものなのか。

 

私自身で答えが用意できているわけではない。しかし、言語には限界があるだろうと思い込みたい。完全な授受を行うためには、お互いに完全にその言語の疎通ができていなければならないがそれは不可能であろう。

 

 

この話はまたネタとしておいておきたい。