常識論・意味論

常識というのは目に見えないが恐ろしいものである。そもそも常識とは画一的に存在するのではない、それぞれのコミュニティに各々で存在するものだ。しかし、たいていはそれが常識であることに気づかれない。

気づかれるのはいつだろう。それは、部外者の介入があった時だ。そのコミュニティにおいて不利益をもたらされるとき、はじめて実感としての常識が感覚的に理解される。防衛本能のようなものではないだろうか。

しかし、だ。どうも私は生きている中でこの常識というものに今まで振り回されてきたのではないか。

常識というのは見えない、それは言うまでもない。だが、常識を振りかざす人間は見ていて酷く痛々しい。「そんなの常識だ」が典型である。もちろん、職についたりすることがあれば、その職業の特性上知ってなければならないことはあるはず。高校教師が教科書を全く使わず授業をすればそれは常識外れだろう(少なくとも現在においては)

では先ほどの「そんなの常識だ」は何がいけないか。使用される場面を設定しておく、日常会話だ。そこにおいては常識というものがかなり曖昧である。日常会話では様々な人が混在する。さきほど常識は各々で存在すると言ったのはこのためだ。各々の、さらに各々の中では常識は限定できない。

常識集などという書籍があるのだろうか、高校まで、いや大学の講義で『常識ⅰ』などというものがあったか。

私としては、理由を説明して欲しいわけだ。いつどこで知るかもわからない見ず知らずの常識が溢れすぎている。なのに、いつのまにか私は常識外れというレッレルを貼られてしまっている。何故だ。決して平凡でいたいわけではない、むしろ非凡でありたい。だが周囲からの常識らしいそれらは、強引な矯正であり、自由を奪うことでもありそうなのだ。もう一度、常識について考えてみてはどうか。



さて

意味とはなんであるか。いや蛇足か、あまりに悠長に書くのも見ている方が詰まらなくなってしまう。

意味とは私的言語ではないだろうか。そもそも意味は今でこそ辞書を引くことで利用できるようになるものではあるが、私が考えるところによれば、意味とは言語使用の中での用法から意味を統括している。最初から意味があるわけではなく、いつのまにか意味が増えるのだ。言語が様々な使い方がされるなかで、それが大衆化することで辞書的な意味というものに転じる。

だとすれば、私たちの言語使用がかなり虚無的にならないか。言語というものは自己完結のために使うわけではない、他者に伝えるためにある。そのためには、自分と他者において意味の共有が行わなければならない。だが今の話からすれば、辞書的になった意味は兎も角として、私的意味はどうするか。


何かを書く際、既存の言語とその意味を全て知るというのは不可能だ。やはり自分の知り得るものから引っ張って来なければならない。しかしそれでは随分と貧弱な文章になってしまう、また知り得る言葉では語り得ない描写をする際にどうしても私的意味が必要になってくる。比喩などがそうではないか。

自分の感覚としてイメージされる事柄が意味として存在はしないが、少し考えると適切だと思える言語があったりする。◯◯のよう といった比喩形式に適当に当てはめて貰えば分かりやすいのではないだろうか。

結局何を言いたいかといえば、絶対意味は存在しないということである。使われやすいのは堅苦しい辞書意味ではなく、自分のイメージと結びつきやすい言語だ。にも関わらず、まるで絶対的意味が存在するかのような文章評論。そもそも感覚を言語化する時点において内面とは隔絶したものに変化している。自分のイメージと、文字とはイコールでつながれない。だからイメージは対外的に発信すべきでないとは思っていたりする、すでに矛盾だが。

どうしてみんなは、自分のことを一言一句細かく表しているように思えるのだろう。これに気づいていないのか、それとも私には理解できないほど高度な能力を持っているのか。