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自意識過剰なのだろうか、私が形のない世間から圧迫されているように感じている。自身のことをまともな人間だとはこの頃思えないようになってきた。(多数派=まとも)

 

形のない常識、世間というもの。そしてそれを振りかざす情報媒体や私からしてみれば莫迦な評論家。例えばだ、常識というものを昨日の如く例に出そう。そういった評論家が常識を固定化しようとする、よくある話だ。であるがその場合、常識というのは為すべきことと同一視されてると感じる。為すべきことは常識であろうか、そのような移り変わるものが、だ。いっそ常識の類義語に多数派などど付けてしまえばわかりやすいのだが、どうもそれは認めたくないらしい。今のところ辞書でその類義語を見たことはない。

 

私自身、どうしてここまで世間というものに反発したがるのかがよくわからない。ことごとく私の思考と一致しないのだ。だから、外に出て何も考えずにただ生きている(ように思える)人を見ると同じ生き物ではないと感じる。常に私は、生というものを疑い、死のほうに親近感を感じている。外に出てほかの人間を見ていると、こう…なんというか、まだ生に意欲的なように見えなくもない。どれだけ多忙であろうとそこでなかなか死のうという人が見られない。自殺志願者と仲良くなりたいものだ。

 

自分のことで精いっぱいのひとにそれ以上求められる苦しみというのはなかなか表現できないほどのものだ。常に死を眼前に感じ、周囲からの形のない圧迫があり、なにか行動を起こすことですら苦痛なのだ。現在からなにかひとつ変えるだけでも精神的な圧迫は大きい。

その上に、今以上のことを言われるともうダメだ。壊れてしまう。「もう大人なのだから」大人は万能人なのか。このような言い回し、中身のない形骸化した言葉だけが残っているのではないだろうか。何も考えなくてもそれを言っておけばいい、定型文会話だ。私はそこに疑問が起こる、なぜか、どうしてか。理由を求められることが甚だ嫌いであるから、求めることもあまり好きではない。しかし、なにごとにも理由が必要らしい生において、聞くことは構わないだろう。

だがこれを真剣に考え答えられる人がどれだけいるか。生の意味、死んではいけないとされる理由、形骸化した言語、<行動-理由>主義、存在しているかの疑問。まっとうに答えてもらった覚えがない、いやそれ以前にこれを表に出すことを非常に恐れた。やっと、つい最近親に伝えられたのだ。親に死にたいことなどを伝えた。

これ以上はダメだ、私は幅広い人に私の主張を聞いてほしいわけではない。であるがこうしてブログなどという広報的なものにおいて書いているのは、だれか私と同じ境遇の人が少しでも見つかればと思うわけだ。人とのつながりを保てない私にとって、同じ境遇の人は非常に心の支えになると思うのだ。自殺志願者と友達になりたいというのもこういうわけである。

 

 

 

 

このように自己を表現しているつもりであっても、熱さが伝わらない。私の表現とはこの程度のものだ。もっと他人にも私の感覚というものが伝われば、多少は生きやすくなるのだろうか。よくある幼稚な言い方であるが、理解されないのだ。そして私は理解されようとしていない。

 

死とはもっとも考えるべき対象であろう。「考えても仕方ないではないか」というのは思考を止めた有機物の言うことである。考えない人というのは恐ろしく魅力がない。私の周囲の数少ない友人にはそのような人はいないと、そう願いたい。