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内向的人間・自殺論

PCが死んでしまい、提出用の評論、小論文が消えてしまいまった。ですのでその分を手書きで書き進めている。ちなみに今日が〆切。


私を形容しようとした時、なんという言葉が思い当たるだろうか。内向的人間、自己中心的、利己的…。あとはニヒリズムとでも一応形容しておこう。

われわれはたいていの場合、一貫性というものを求める。受験生だから遊んではいけない。医者だから仕事外でも人助けすべき。子どもなのだから親に従わなければならない。そしてついには、人間だからこうするべきなどという極論にまで達する。極論と表しているが、事実卑近なものとして存在する。われわれは常にものごとの間に聯関を求めている、因果を求めている。どうして因果が求められるかを少し考えよう。

思いつくのは『わかりやすいから』である。そしてその根底に存在するであろうのは、責任の押し付けである。失敗したとき、みんな等しく、なかよく痛み分け…といった事態はあるのだろうか。原因が誰で、何で、どうしてで…これはわかりやすく罪人を暴き出す手立てである。まァ、原因追求という名目があるだろうが、もしそこに人間が関わっているなら、そしてその人間の関わることがらに原因追求が求められたとき、われわれは後悔せざるを得ない。

どこにいっても、なにをやっても、『何故?』が付きまとう。理由なしの行動は許されていない。全てのものごとに理由はあるか?理由というのは事象を解するためのものであって、他人を貶めるものではない。それを勘違いしている人間は、暴力的言語によって他人を吊るし上げようとする。

話が逸れた。理由というものが常に成立するか考えてみよう。人間によって手の施されたものには目的があり、同時に理由が存在することになる。であるからこれらは理由のあるものとして間違いない。ということは、自然存在しているもの、人間の行為に対し考えることになる。はじめから極めて大きな例を挙げよう、地球、いやもとより生命が存在する理由ということだ。しかしこれを語るのはかなり宗教色が強くなりそうな気配がするので、門外漢の私からはなにも語れない。では少し規模を小さくし、海流というものを考えてみる。海流に理由はあるか?

ここで一応説明しておくが、原因と理由を混同してはならない。今回は理由である、理由とは目的の表裏として存在するものである。海流には理由というものが見当たらない、であれば気流は?波は?波動は?

目的であり原因を私たちは見つけることはできる、おそらくそれはたいてい後付けの都合のいい解釈である。しかし、理由というものを自然に求められないかもしれないことがわかった。

では人間に対してはどうか。存在論に関して述べると、先ほどのように宗教色が強くなるので避ける。為す行為に対して考えよう、いや人間存在以外に述べるなら為す行為以外にはないのだが、思考することに理由は付けられるかどうか。考えなくても良いということは分かっている、しかしそれでもなお思考するという意志的な行為(私にとっては不本意であることがさながら多いが)に理由は付けられるか?

生き延びるため?思考しなければ生き延びられない時代は終わっている。

世の中を解するため?解さなくても、惰性的に生きることはできる。

なかなか思いつくものではないが、これを考えるうちに理由を求められることに嫌気がさしてきた。一応これの答えを無理やりに出すと、自然存在するものに理由をつけることはできない。しかし、人間の手の施したものには目的、理由をつけることができる。しかし、人間の行為すべてに理由をつけることはおそらくできない。

こうなった。たいていの人間は生きているだけでいつの間にか人間らしさを求められ、常識を求められ、窮屈な人間たちのなかに存在しなくては無くなる。それを私は放棄したいというわけだ。人と関われば、根拠もない理由論をふりかけられ、疲弊してしまう。みんなは慣れすぎているのだ、この世の不平等さ、理不尽さ、生きにくさに。繊細さを失った人間だ、もはや機械になってしまっている。そろそろ人間の中でも、人間と機械を分類する時代が来ても良いのではないか。

そして最後に言っておきたいのは、理由をつけるのは私ではなく他者だ。




自殺のお話。自殺を否定する人たちがいる。そのような勇気が持てるなら、明日を生き延びれると、こんなことを言う。

自殺することと生き延びることの勇気が同じものなのか。おそらくこれも言葉の問題になるが、勇気という一言でしか彼らは希望を見だせない。不自由だ。人を殺す勇気と人前で叫ぶ勇気。お化け屋敷に入る勇気と絶望的な明日以降を生き延びる勇気。これらはそれぞれベクトルが違う勇気である。
 
生に意味論を展開する人間は、自殺の有用論を展開する人間とは相容れない。お互いになにも理解しないからだ。私が生を享楽的に解釈している人間を見て嫌悪感と嘔吐感を催すのと同様に、彼らから見て死にしか意義を見だせない私は違う生き物に見えるだろう。

いや、違う生き物なのだ。違う生き物だからこそ理解できない、そもそも体質と、思考も、幸福という概念も、すべてが違ってくる生き物。それは同族ではない、異なる生き物だ。だから理解されない、理解されようともしない。

自殺というのは、今日これからの絶望的な、重くのしかかる、真っ黒な存在から逃れることのできる、そして最後までそこにある唯一の逃げ道なのだ。もし人生幸福論者がいて、まわりに自殺志願者がいるなら、このことを知っておくだけでも良いだろう。