死についての考察

私は自分の身が死に近いと感じている。いや、私だけではない。生きる者はみな死と隣り合わせであり、それを紛らわせるために他のものに固執する。死という真っ黒でドロドロとして、掴めないものにひとたび引き込まれてしまってはならないと、直感として知っているのかもしれない。

だが私は死を私のひとつの構成要素として考えており、だからこそ死から逃れることは、物理的にも精神的にもできない。私が過ごしている中で常に隣にいる、いつ取り込まれるのだろうとワクワクしながら生きてしまっている。


身近な人の死を、2人経験した。寿命ではなく、だ。ひとりは当時付き合っていた(ただしくは別れた後なのだが書くと長くなるので割愛)女性だ。病死であった。遠距離恋愛であったから、会うこともできなかった。それに、自分の死が近いことを知りながらも私になにも伝えなかった。優しさなのか、恐れなのか。私にはどうすることもできず、ただ彼女は元気なままだと疑っていなかったし、死後に彼女の母親から電話が掛かってきたとき正気を失っていただろう。

最後に聞けたのは「また明日!」という言葉で、ありきたりだ。その明日が来ることはなかったし、私と彼女にとって迎えられることのない日だった。


もうひとりは、大学生の友人であった。彼は自殺だった。自殺志願者であることは知っていた、さまざまな精神的苦痛を抱えていた。それが原因なのかはわからない、結局彼は自死することを選んだのだ。私がどうこう言うことはできない。

彼は死にたいと私に言ってきた。私は止めることをしなかった。生の意味を語れるほど私は生きなければならないという意識がなかったし、それに彼のつらさが多少なりとも伝わっていたから彼が楽になるならそれでいいと思った。その彼からの最後の連絡は「ごめんなさい」とひたすら書き連ねられた文章。その後彼とは連絡が取れなくなり、彼の親から自殺したことを告げられた。


勿論言葉にならないほどの苦痛が私にはあった。だが、止めることは私にはできなかったのだ。私は彼女と彼のつらさを知ることはなかった、伝えてくれればなどと莫迦な事も思わなかった。後悔はあったかもしれない。ふたりの死を私は知っている、だから私が生きようなどとはならなかった。

自分の生は自分だけのものだ、死んだ人の分まで生きるというのは綺麗事だ。生は共有されるものではない。



私はこの経験を書きなにを言いたいのだろう。自分でもよくわかっていない。ただ、この経験が今の私の死に対する積極的肯定の要因となっているのはたぶん間違いない。

では死について考察をしよう。



まず私の死についての考察において最も重要なのは、自死はつねに善であるということだ。生きたいと願うひとが自死を選ぶ事はなく、それは外的要因であろうからとくに述べられる事はない。

生きる事が辛く、苦しく、また身の拠り所も得られず、誰ひとりにも理解されない。そういった人に、死という存在が歩み寄ってくるはずだ。そしてそれ以降離れることはない。さっきも書いたが、死を意識しなくなるのではない、死から逃げようとして紛らわしているのだ。だからたとえば、莫大な財産を得る、かけがえのない恋人・友人を得る、社会的成功をする…このような経験で死が遠くなるような気がするかもしれない。だか、一度死を隣にした者というのはその束縛から離れられない。ふと気づけば、隣にいる。あせあせと働いて、考える暇もなければ見えないかもしれない。いやそれでも、確かに居るのだ。そしてそれは私たちにとって外敵ではなく、むしろ味方だ。彼らに歩み寄れば、もうなにも考えなくても良い、感じなくても良い。死後がどのようなものかは我々は知らないが、恐らくなにもないのだろう。ただ生物としての機能を失う、それだけ。


ではなぜ、死は悪のような扱いを受けるのか。それは私たちがあまりに死を知らないからだ。答えのないテーマであり続け、それがどのようなものであるか決定的確信を得られない。それを得られるのは死後のみ。だからみんな恐れるのだ、毛嫌いするのだ。

平凡な生を送る者と、私たちのように死を身寄りに置くものは対立し合う。私たちは、彼らのただ生きているということを受け入れられない。あまりにも自分と違いすぎる者は、同種ではなく、異種であるように思う。そして彼らは、自分たちの側にも死がいることを見ようとしない。気づいているのに、見ようとせず、そこから必死に逃げようとする。

そんな彼らを愚かだとはとても思わない、彼らにとっては生こそ卑近な存在であって、それに身を寄せるのだ。

こんな話をしていると、まるで生死が対立する2つの項であるように思われるかもしれない。だかそうではなく、生には死が必要である、反対も同様。これらは一直線上のものであって、時系列的な問題である。だから様々な要素を考慮しなくともそれらは対立ではない、だが先ほどの話の通り、生と死とそれぞれの論者たちは対立してしまう。何故だろう。


最後になるが、生を享受すべきとする人たちはあくまで自分たち人間のことしか考えていない。食事にも、衣服にも、それらは死の詰め合わせであることの自覚がない。だから、それを見ずにただ生を幸福とみなす人がいると、吐き気がするのだ。お前たちは自分たちだけで生きようとしている、自分たちだけが幸福であることを知らない、お前たちの周りは全て死骸であるのに。