東洋

哲学と呼ばれるものがある。私の言い方で表すなら、思考の冒険とでも言おうか。決まっているのはぼんやり見えている行先だけである、しかし終着点はない。ただ、冒険を続けている。

哲学、その意味するものはたいてい西洋のものだ。古代ギリシアに生まれた思考、知を愛するという意味から来る愛智。それこそが哲学であるようだ。だが現代においての哲学は、智を愛するものたちばかりではなくなってしまった。しかし彼らは哲学者なのだ、哲学の意味するものが変わってしまったか。

私たちは東洋人だ。地理的な区分からもそう言えるが、思考・発想の面からも東洋人であることを自覚できないだろうか。私たちの思考や発想、それらはほとんど西洋に侵されてしまっている、最早どれが西洋的であるかどうかを自覚できないほどに、いやすべて西洋的だともいえるかもしれない。そんな中に、どうにかして、東洋人としての自覚、そこからの思考を得られないものだろうか。

この西洋に侵された思惟、まずはここから東洋を見るほかない、これは避けられない。違和感があっても、東洋の発想を受け入れなければならない、そうでなければ私たちは東洋人としての生きることは到底できないのだ。