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哲学が私に与えたもの

やっと肌寒くなってきた。夏は苦手だ、汗をかくから。だが汗をかくと「私は生きているのかもしれない」と平凡ながら感じることもあり、悪くない。いやしかし、汗なら1年中かけるから夏はやはりいらない。

 

哲学の存在は、高校時代から知った。倫理の授業で少しかじった程度であるが、何故だか社会はそのまま倫理を選ぶこととなった。最終的には日本史を除く、地理・世界史・倫理・政経現代社会をやる羽目になったのだが。

しかし今のように没頭し始めたのは、実はほんの2ヶ月前だ。「哲学の教科書」という本を手に取り読むこととした。おそらく今の私が始まったのはそこだろう。衝撃的だった、著者の感覚がまるまる私の感覚だったのだ。まさか私の感覚を持っている人間がいるとは思わなかった、世界が広がったようだ。

 

私の思考に「哲学的」というコトバが付与されたのはそのときだ、そのときから明確に私は哲学を学び始めた。私の時期を二分するならばそれは間違いなく今年の夏だ、それ以前とそれ以後ではまったく異なると言っても良い。

 

哲学というと、哲学史を学び、思想史を学ぶ先入観が未だにある。それも必要だろうが、私が思うに、必要なのは哲学衝動をぶつけられる対象を見つけ、それを理性で考えられる限り考えつくすことではないか。過去の哲学思想はその中で引用以上に意味を持たない、それらとまったく同じ考えに至ればまだしも、自身にとってそれらは異なってくるはずだからだ。そう考えると、過去の哲学から学ぶべきは、彼らがどのように考えてきたかという点である。

何より重要に思えるのは、それを自分のコトバで書くことだ。人の言葉を借りると、余計に読み手が混乱する。厳密に、ただひとつの解釈にあるべき哲学において、引用を増やし読み手を定めるかのような立場になってはならないと感じている。これは私があまりに哲学史を学んでいないからという理詰めでもあるが…。

 

 

 

良いことばかりではない。原因と結果が哲学を考え進めるにおいてそれなりの地位を占めるようになってしまい、私自身を理性的に分析するようにもなってしまった。それが与えたものは、私の他人に対する不信感、親までも含め理解されないような孤立感。今でさえ、数少ない友人に不信感を与えてしまっていることだろう。この態度を固持していけば、人間らしさから離れ、かなり俯瞰できる立場を得られるのかもしれない。だが今すでに、私は居場所をどんどん遠ざけてしまっている。

 

これからしばらくは、過去の私を省みる必要が出てきた。精神的に、居場所がない。莫迦でかまわないから、ただ居られる場所を得ないといけない。