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思春期という病

ブログを書こうと思ってはてなブログにアクセスしたら、社畜の方ユーモアあふれる独白を見て「ハハハ」と笑いながらも、心では笑えなかった。まあそれは兎も角。

 

思春期は少年期の症状と思われがちだけれど、今でも私には続いている。これは私だけの症状ではないだろうと思いたい。自分は特別な存在で、社会に出て埋没してしまうのが怖くて、才能があるはずなのに出てこないことに思い悩み、それでもやはり凡人であることを受け入れようとしない私なのだ。

 

「おれは特別なんだ」「あいつらとは違う」「みんなは目が悪いからおれの良さをわからないんだ」「どうして理解されないのだ」「もっと上に行けば評価される」

 

どれもありがちであろうが、しかしそれは今なお続いているのだ。自分と言う存在が、私のもっとも嫌う「普通」に埋もれていまうことは、たぶん自己喪失に近い。そもそも私が「普通」というものを嫌うことは、「特別」でありたい中高生のよくある発想からそのまま来ている。精神的に成熟せず、理解されないことの原因を他に求めるのだ。それはまた、努力しないことにもつながっている。私は今でも、努力とは他者に承認されるための見せ掛けのツールのように思っている節がある。そういう風に見せれば、たいてい他の人は認めてくれる。そんな浅い承認欲求を求めていたのだ、今も含めて。

 

この文章を書きながらも、心の底ではやはり「自分は特別」という意識が消えない。私はこれからもしばらく、この憎悪と葛藤の混じった感情を持ち続けなければならないのだ。

 

この際だから自分の嫌いなところ、いやこの思春期という病からの逃避を責めてみようとおもう。思春期のそれ、さっきも書いた「自分はいずれ成功するはず」という考え方は、努力は報われる、因果応報の文化からきている。努力したものは報われなければならない、まして自分なのだ、他でもない自分が努力をしているのだから報われるだろう、という考えを持ち続けることでたいていの人は「モラトリアム(猶予期間)」というコトバに逃げる。私ももちろんそうだった。今はまだ成熟期ではない、まだゆっくりやる時間なのだ、近いうちに認められる。この考えは、原因を他にしか認めず、自己反省を行う機会を悉く持ち去ってしまうだろう、結果としてその循環から逃れられず「社会」というものを否定し始める。既存のものに対し反発しないと、今の自分の状況と矛盾するから自然とも言える。

 

こんな思春期病諸君に送りたい、思春期病真っ只中の私からのコトバは「偉人伝を読もう」だ。一応言っておくが、私は自己啓発の類は嫌いだ、だが私たちの病を治すのは紛れもない私たち自身であるのだから、親や、医者や、友人や、先生に相談したところで自分の正当性を譲ろうとしないだろう、「どうしてわかってくれない」なのだから。人間からの接触で不可能なら、もう瞑想するか、宗教に入信するか、本を読むくらいしかない。本、とくに偉人伝というのは不思議と親近感を与えてくれる。夏目漱石が評価されたのは40歳あたりで、決して早熟ではない。やりたいこともわからず、心は宙ぶらりんだった漱石は右往左往してやっと文学の道に落ち着いたのだ。そのあたりの話は『私の個人主義』に書かれている自己本位という生き方は過度に解釈してはいけないが、思春期病には有効であろう。詩人のゲーテは、志だけが大きく実力の伴わない眼高手低のひと、それにして努力をしないひとを非難しているし「ごめんなさいがんばります」と言って、小さなことを続けていくべきだろう。

 

人間は究極的に独りであるけど、私のように理解しない他者を排除し続けた人は本の中に生きる人物に思いを馳せることができる。すごい人だったんだな、で完結していた人の努力なり、人となりを知れば自分の近くにいるように思えてくる。孤独に歩み始めている私であるが、今まで読んだ偉人たちの生き様を見ていると、これからどうすればいいかがなんとなくわかってくるのだ。かつ、友人のように見做し、友愛を得ることもある。勝手に慕って、恩師のように語ることもある。偉大な発見をした人も、思春期や恋愛や自分の存在でうんうんと悩んでいたのだ。今の自分と照らし合わせたら、少しは気が晴れるだろうと思いながら私は彼らの本を読んでいる。

 

モラトリアムだと済まさずに、もうちょっと考えてみようじゃないか