空欄

昨日今日の2日程度で思考がさまざまな方向性を持ちたがっているようで、死を考えた時間があれば、無気力を風邪のせいにするという動きもあったりした。そのため、内容は決して統制がとれたものではない

 

コトバ

今、この現在においてもっとも主要な関心は「自分の存在」についてと言えるのだが、それを書いていてはまた以前の内容の垂れ流しになりかねないので少し方向を変える。

モノを書くときに、それが極めて主観的立場にならぬようと言われることは多い。<ここで主観-客観の問題(客観って誰?)が私のこころで湧き上がるのだが、こいつには一度黙っていてもらおう。> 主観的立場と一語にすればわかりやすいようであるが、これがどういう性質を持っているのか考えて見ると…思うに…冷静さや、論理的というコトバたちとつながりがあるように見える。他人に伝える際に、自分の感情は抑えるべきであって、それがあまりに大きくなると感情論という次元に移行してしまう。そうなれば相手に正確に伝わらなくなってしまうだろう。これが主観的立場から離れるべきだというコトバに含まれる「意味」であるなら、およそ私も同感である。

 

(勿論ここで異を呈するのは読む方にバレてしまっているだろうが)私はここで少し立ち止まった。ここ最近の私のコトバの持つ効用としてあればいい…という希望なのだが『リアリティそのままに伝えることは可能か』ということを異を呈する一歩目として考えたい。冷静さと熱さ(ここではダイナミズム、リアリティと呼べば想像がつくと思う)はコトバの意味作用としては相対する地点にある。相対するということがらは一方の優位ともう一方の劣位が同時に反作用する、と今のところ考えている。だがら、ここで私が現在の苦痛や辛苦をリアルにコトバに乗せる事で伝える際に、冷静さというものは欠如しているように思われてしまう。このあたりが葛藤の要素であるようで、冷静さとリアリティを同時にコトバに乗せられないのだ。どちらか一方を棄てなければ、この気持ちを伝えることなど出来ない。

 

 

哲学の持つ学問性

哲学と言うと大層なものと思ってしまい、未だに「自分が哲学している」とは恐れ多くて言うことができない。私当人が感じている、現在の哲学に漸近する思考のそれは「思いつき」というのが正しいと思われる。(西洋)哲学と思想が異なると感じるにがどこにあるかと考えてみたところ、思想と論理が合わさったものが哲学になるのだという結論に至った。

 

それは兎も角

 

哲学と言うと私の祖父母の世代からすれば良いイメージがもてないらしい。主にそれは、哲学を志したがその根本原理を見出せずに自死した藤村操の影響が強いようだ。そのせいで哲学=死というイメージが取り払われずにいるらしい。私自身も、哲学という一学問を学ぶ中で自我が喪失した…と言うのは言い過ぎるが「死」の魅力に取り付かれるまでになってしまった。ニヒリズム虚無主義の立場を持つ人間がいるというのは哲学ならでばと言ってもいい、哲学を学んでいなくとも人生の不可解さ、報われなさ、考えうる限界、伝えることの出来ないリアルに絶望し自死を選ぶひとびとの気持ちを私は理解しているとおもう。もともと選ぶことが出来ない中で生まれてきたのだ、その理由を理詰めで考えてゆくのは無理がある。生に有意味性を持たせるのは、なにかしら満たされているひとなのだ、宗教、貨幣、地位、友人関係…その満たされた部分をまるで万人に共通するものとして錯覚し、他人と自分の感覚は等しいと考えてしまっているのだろう、というところに私は気持ち悪さを覚える。もし私が生を肯定的に受け入れることができても、決してそういったことをあたかも「共通の真理」として述べることはしないでおこうと思う。

 

哲学は学問の一分野と思うことができるのだが、今日学問はさまざまに分化し、哲学と言っても、教育哲学、言語哲学、科学哲学、批判哲学、臨床哲学法哲学宗教哲学また包括範囲が異なるが倫理…というふうに、とても一人では学びきれない程度の学問になってしまった。更に哲学の特異性として、共通概念が他の学問と比べ少ないことが挙げられる。理科系の学問とは違い、哲学はピラミッド形式ではなく整列形式とでも呼ぶほうが良い。一部の方向においては、上に積まれたり、下に基盤となったりすることもある。

 

しかしこれら哲学が一学問として認められつつ、実際にそれらで最善の答えを示しているかと言われれば決してそんなことはない。哲学としての役割は、哲学でなくとも担えてきた。カラマーゾフの兄弟人間失格、力学対話、聖書、コーランなどを読んでいけば、現在認められている哲学の諸問題に与えられた各々の回答よりも優れていそうな部分は各所に散見される。だから、哲学独自の有意味性というのは、これら優れた回答から残された残り汁ようなものであるのだ。こういうことを考えて見れば、哲学は要らないと言うひとのことも少しわかる気もする。

 

しかし、だ。これを認めていては私の思いつきに、私らしさ、強要されるかのような今の感情を無に帰すこととなりかねないのでひじょうに弱い弁説だが言っておきたい。私たち哲学病患者あるいは思春期病を拗らせた者者にとって、この哲学という分野は魅力的であるのだ。学問をに興味を持ち、好きになる工程とは逆であるが、今まで考えてきたことに哲学という学問性を与えられたのだ、これは哲学を取り払ってどうにかなる問題ではなく、哲学それ自体が自分を形成しているようである。ほんとうなら、生きる意味、善いとはなにか、あらゆるものごとの根底を探し出そう…などという疑問や動きを行っているひとは哲学すべきだと思うのだが、その答えを「無意味」「考えても仕方ない」あるいは、他の学問への執着や、楽しく生きることを良しとすることによって薄れてしまう程度の感情であるのだから、かれらに私たちは異様なのだろう。

それでも私たちが哲学から離れられないのは、哲学自体に本能的幻惑があるとしか言いようが無い。周りには異様に映っても、当人たちには当然の動きなのである。