雑考…死・愛・コトバ・神など

死については勿論であるが、愛や神というものを考えるようになった。まず、死は精神を持つ人間に対してどのような意味を持つのか。これを私のこれまでの経験や、推測から考えてみたい。

 

死とは何であるか、唯物的か、精神的かでさまざまな考察がなされている。魂の離散であるとか、心機能の停止とか、あるいは生を享受する私たちの畏れであるとか、そういった話になる。この話は自分のみに焦点を当てたものであるが、一方で「他者の死」は自分に対しどのような意味を持つのだろうか。先ず「私の死」というものはハイデガーというエライ哲学者が「死は現存在のもっとも固有な可能性である」なんて言っている。ハイデガーというエライ人が言ったから重要なのではなく、この命題そのものが重要であると考えて欲しい。といってもこの命題は解釈の分かれるものではないだろうからそのまま理解することが出来よう。、死は万人に訪れるものであるのだ(固有の可能性と述べているのは人間として与えられる死は体感不可能であるからだろう)万人に訪れる固有可能性であるからこそ、私たちにはリアルに近似したものを精神的に味わうのである。

 

死の体験をすることは不可能であるにも関わらず(臨死体験は別として)私たちは「死にそう」なんてコトバを発する。本当に死ぬかはわからないが、死と云うものはどうやら苦しみと等式で結ばれるらしい。それは天寿を全うするような死よりも、殺人、服毒、投身自殺、災害といった痛みを伴うもののほうがイメージが強いからである、だからたとえば、心臓が掴まれたような苦しみ(精神)、燃え上がるような身体の熱さ(身体)を体験したときに安直にも「死」に繋がりやすいのである。この二例に心身を挙げたのは、精神的、身体的のどちらからでも私たちは「死」を想起し得るからである。死は肉体の喪失と云う唯物的観点からすればまるで畏れるに足らずと言うひともいるのだが、どうも精神面からの考察が欠落しているようだ。

 

精神面…ここから死を観察することは最初に述べた「他者の死」に繋がってくる。「私の死」というのは実体験として一度しか得られないモノであるにもかかわらず、そのときこの世には私の精神は無い(とされる)のだから困りものである、特に実証を重んじる人たちにとって精神面からの考察が薄いのもこのあたりに理由がある。だが、友人、恋人、家族(ペットも)、神…などの死が私たちの体験可能性としてある。その死(の直前)を目にしたとき、あたかも傍観者であるように思われがちなのだが、私はその人の死にほとんど同じ状態で存在していると考えている。

<この話をする前に少し死の話を別に考えておくほうがよい。大事な人(存在)を失った(死)とき、私たちはまだ生きている。誰かが死んでもあなたは生きている、これが傍にいる者にとって大きな苦しみでもあるのだが、それは兎も角、肉体的な死ではなく精神的な死はあるのではないかと思う。それを契機に「生」きてはいるにもかかわらず、まるで別人のように変化する人がいる。全員ではないが、少なくもないようだ。傍から見れば「生」きてはいるのだが、本人の精神、あるいは今までの人格は「死」んでいると見れる。死んでも生きているのは肉体であって、精神が死んでいないとは限らない。精神が死ぬ…私の経験からの話になるが、リアリティを感じられなくなるというところか。生きるものが生きているかわからない、いずれ死ぬというより生きてすらないのではないかという感情が生まれる。感情といいつつそこには起伏は無い、ひたすら平面にある感情だ。>

 

もう目の前で死ぬ人間を目の当たりにすると、特に依存度が高ければ高いほど、自分の精神は死ぬことになる、これもひとつの「死」であるのだ。だから「死」を目前にしながら、同時並行的に自身の「死」を精神的に体感することになる。

 

 

このように死を肉体的ではなく、精神的な方向で考えることとした。だが私にとっての「死」とはある意味甘美であり、救いであるからさきほどの話の中に私の「死」を求めることは出来ない。

一部の人間は所謂「死にたがり」である。他人に構って欲しいから言う人間もいれば、どう死ぬか、いつ死ぬか、誰と死ぬか、何をして死ぬか…なんてものをウンウンと考えて、ただ実行していない(未遂も含め)者もいる。他所から見るとこの両者を見分けることが出来ず、どちらも「死にたがり」という分類になる。死が美しいのはそれが固有物であるからに思える、動的ではなく静的なものに私たちは惹かれる。死とは人間にとって極限の静表現である、誰もが持つ可能性でありながら多くの人はそこから目を背ける。だからこそ少数の死にたがりの私たちが死をより深く観察し、想いに耽ることができる、死は私たち少数の甘美な思考・観察対象である。

 

また、救いであるのは多くの場合、現在の苦痛から逃れる唯一手段であるからだ。これはよくよく知られているかと思う、しかし下手に他の人間と関わり始めるとこの苦痛が他者にまで伝染する(さっきの精神的な「死」の話)

いやそもそも生まれてきた時点で親にはほぼ間違いなく関わらねばならないし、友人っぽい人たちとも連絡を取っている場合も多い。死にたいと言うと「苦しむ人のことを考えろ」と言われる、これはもっともであるが私の苦痛は全く眼中に入れられてない。日本人は調和を重んじるというが、こういった部分にまで醜い調和が存在してしまう。(たとえばデンマークなどでは親とは早い段階で離別するため、このような「調和」が重んじられず、教えられることが少ないらしい)

 

人が悲しむから死んではいけないのか、なら私の悲しみや苦しみをどうすればいいか?死んではならないと定言しつつ、具体的方法を聞くと「自分で考えろ」となってしまうわけだ。だから、というわけではないが私は死にたい人間に対して無理に生きろとはほとんど言わない、もしその相手が助けを欲しているのであれば私にできることはやってきたはずである。同じように悲しみ、同情し、必要であるなら傍にいるという形が死にたがりの私たちに多少の和らぎを与えてくれることをなんとなく知っている、だからそうしてきた。

 

死にたがりと何度も言いつつ、私はこのコトバがあまり好きではない。コトバ自体の性質上、何度も言うようであるが、意図するもせざるも発信者以上の意味を受信者に与えてしまう。死というと生が対比されるように、意図と言うと無意識が規定されてしまったり。コトバは常に争いの種である、さらにコトバはいつの間にか私たちの内面的な考察にすら必要になっている。自分に対してなら兎も角、人間は特に他人のコトバに対して敏感であるようだ。数々の論争などを見ていると、もう話し合いをしたいのか揚げ足取りをしたいのかわからない場面が多々ある。彼らはコトバの奴隷なのだ、コトバに良い様に支配され、コトバなしでは生きられないようになっている。

 

コトバの歴史は長く、また深い。異文化との言語面交流が難しいといわれ続けているが、同文化であるからといって簡単なわけでもない。対象が別のものであるゆえ比較はできないのだが、異文化間で難しいとされる理由は「文化」そのものである。食文化、風俗文化、民族文化…私たちの見地からは異質なものばかりであるゆえ、私たちの持ちうる文化的言語からは表現しきれないものが多いというわけだ。一方で、同文化内の差異は一般コミュニケーションではなく、内面コミュニケーションに顕れる。一般というのは、日常会話からビジネス会話までさまざまであるが、ひとことで言い表しづらいものなのだが「とりあえず微妙なニュアンスまで汲み取る必要の無いもの」と言っておこう。ご近所さんと話すとき「いい天気ですね」「温かいですね」「昨日はずっと寝ていました」などがあるが、これらは自己内面表記とは言いがたい。いや、気分を表すことはできるのだが細かい感情まで乗せる必要がないわけだ。その一方内面コミュニケーションでは自己対話も含め、微妙な感情、言い表しがたい感情などをコトバに乗せていきたい時があるのだが、適切な語彙を知らない、表現力が無い、伝達力が無いなどの要因もあり伝えきれない。かといって、語彙が豊富で、表現力豊かで、コミュ力の高い人間であっても、繊細な感情をそのまま相手に汲み取ってもらうことができない。どれだけ親しくても、だ。ここに葛藤を感じ続けるのは私だけなのだろうか…。

 

もう少し書いていきたいのだが眠くなってきたので切り上げる。