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感覚の世界で生きられるか

この世では…たとえばこのタイトルのように「感覚の世界で生きる」と言ってしまうと理性的認識、本能的行動に対して揚げ足を取られ「お前は感覚で生きられていないじゃないか」と言われる。おそらく多くの人間は『コトバはほとんど何も表わしえない』ことに恐ろしく鈍感なのである。意思の表明(それは自己暗示も含めてである)はコトバに乗せるのが私たちの持つ手段の中ではもっとも手軽で、意識的行動である。

にも関わらず、鈍感なそれらの人々は揚げ足を取るのが本当に大好きなのである。だがこれらを揚げ足取りと取るか、あるテーマに没する興味深い思惟対象の具現化と取るかはまた難しい問題なのだ。

 

蛇足から入った今回のブログである。

今私の読み進めている小説…アンナ・カヴァンの「氷」…の端々を読んでいると、愛ってなんだろう、依存って何だろう、絶望ってなんだろうと考え始める。ドストエフスキー著作では、愛と憎悪の分別がつけられない、未発達的人間ばかりである。だがそれらは彼らにとって愛である…それと同様なものを、この小説の「私」そして「長官」からは感じる。少女に対する異常な執着、傷つけることに対しての軽率さ、それは暴力(表現)を伴って表れる。愛することということは相手を傷つけたいという欲望と表裏を成すのだろうか、彼らの行動・真理の本質はなんなのだろうか。

 

本質というものを考えていくとき、私は今までに大きく勘違いしていたのだが、本質は統一的な、画一的な、分節可能な、われわれの理性的認識世界のものである必要はないのである。根本的本質は『一』である必要がないのである。私だけでなく、恐らく他のひとたちも、自分に認識可能な理知的本質を求めようとする、であるから自分の認知不可領域に関してはそれを本源的なものとして(ましてカオスであれば)認めないのであろう。

 

このカオス的本質は、精神的葛藤をさまざまに持つ者に起こりえる。はたまた、ロシア的精神の本質もカオスであるともされる。

自己の精神内をコトバであらわそうとし、また、あらわされようとする。一時的にそれに納得しつつも、結局それらは自分の何もあらわせていないのだと気づき、絶望する。コトバとは私たちの第一的感性になりつつあるが、精神の儚さや繊細さを、未発達のコトバで表するのはあまりに惨いのだ。人間は、弱ったときが最も繊細、いや繊細だからこそ弱るのかもしれない…が、コトバというものを用いる人の多くは、その繊細さ、儚さを表現することができないのだ。大切な人の死と、どこの家かもわからぬ者の死を同じ1人としてしか表現できないようでは、その人は精神の脆さを硬直したコトバで捉えることなどできないのだ。

 

感覚的世界で生きること、これはコトバの世界から離脱を試みたい人々に手向けられるひとつの逃げ道である。肉体のさまざまを放棄し、精神のみをユートピアへ据え置く。いつだって精神は「快」の世界にいるのだ。だがこれは可能であるかないかを考えるまでもない話である。

だがもし精神体験において可能であれば…と願う。

その人はおそらく「異常者」となるのだろう。