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頭痛

ただ頭が痛く他にすることもないのでつらつらと書いてみようと思う。

 

毎度のことであるが、私は調べものをほとんどせずに自分の頭のみで考察をする。怠惰とかそういう理由もあるのだろうが「本当に正しい情報」が何かを私は知らない。与えられた情報を正しいと鵜呑みにしてきた弊害だろう、突然何が正しいかわからなくなってしまった。私の頭には、つねに肯定する私と、それに反発する私がいる。この二つの相乗によって最善の解が導かれるようであるが、実際のところ、反発のほうが強い。今まで私はなぜこれを正しいと思ったのだ、どうしてあのとき聞かなかったのか、今私にとってこの問題への接近はどのように行われるべきなのだ…と。

 

正しい知識とは即ち正しいとされている現段階の知識である。その知識の振れ幅は大きく、学者に委ねられるしかない。平安京の時代には寝殿づくりの建物があった(教科書等に載っているものであろうから気になれば参照)。その中の泉殿という建物がある。この建物、字の如く井戸をがある建物なのだが、上部からの図から見るとこの建物は池につくられている、その昔に森蘊という方が「井戸を池に作るアホがいるか」と指摘して現在の学校配布教科書はやや改訂されつつあるという(それでも改定されていない教科書もあるというのでその怠惰さに驚き呆れる)

 

所詮こんな程度なのである、特に歴史を顧みる必要のある学問においてこれは顕著。その時代の様相をつくりあげるのは(立場は)エライ学者である。その中にもきちんと正当性を疑い続け研究する者もいれば、呆れるほど怠惰な学者もいる、働き蟻の例のようだ。私たちはそれに振り回され、幼年期で培った情報であるほどにその根付きは深くなる。対立化のシンプルな原因である。だから私のここでの懐疑を正当化しようという目論見もあるのだが、正しさというその場限りでの「真」を私は信じたくないのだ。いずれ変わるであろう正しさを、その場その場でまた新たに学びなおすというのはどれほど無益であろう、考えて見て欲しい。

 

この私の懐疑、どのような立場の他者であれこれを適応する。疑うことにマイナス要素を感じてしまうようなひとは、おそらく私には近寄ってこない。

 

信じてもらわねばならないか?

疑ってはならないか?

あなたの向ける情は一時的なものだと思ってはならないか?

あなたのその発言、どうせ変わるものとして見て、ああやっぱりと納得してはいけないか?

その他人に向ける懐疑を自分に向け苦悩してはならないか?

浮ついたような今の現状、生と感じなくてはならないか?

 

 

あらゆるものへの懐疑心、哲学への傾倒もあり、さらに深くなってしまったようだ。私にとって哲学とは処方箋でもあり、麻薬でもあったのだろう。人と関わらねばならんこの中で、特に親しげな距離の人間にこの懐疑は向けるべきでない…少なくともその素振りは見せてはならんとされる。ああ人間同士の集まるこの空間…社会では「私」などほんの構成要素でしかないのだ。「私」は目立つようなことや反抗心を立たせることを望まれていない、もしそうなることがあれば「私」の代わりに「誰か」が来るというだけなのだ。世界内部は循環の連続、ただ「私」が消え「誰か」が入ったというだけ。そしてそのことを知られぬままに動いていくのだ、なんと儚いことだろう。

 

「私」が「私」である必要なんて無いのだ。