望むコトバ

何か書きたい書きたいと思いながら過ごしていると、前回の更新から歳が明け、1月も半ばになってしまった。書いては消し、書いては消しを繰り返し、結局何を書きたかったのかわからぬまま。やはりTwitterのように字数制限があると便利だ、思いつきというのはたいてい140字以内で収まる。

 

・いつかも書いた気がしなくもないが、ブログ記事として書くとなると、私の無意識は『2000字程度』を目処にしているらしい。今回は1000字程度で収められるように簡潔なブログにしたい。

 

・思いつきというのは凝固させてやらねば、抜け落ちてしまう蒸気のようなものだ。その凝固作業とは即ち言語化に当たる。言語化の正負両面を観察して見る、すると正の面には凝固作業、そしてそこから得られる実感としての意識や無意識の表層化が見られる。一方の不の面、言語化とは当然ながら『現段階で存在認知され得る言語』内部でしか表現できない。最も適切な表現はまだ見ぬ術語かもしれないと怯え、また言語によって蒸気を枠組みの中に固定してしまう…詰り意識外部の不確定的要素までもがそのコトバに内包されるということ。この言語化及び、言語本質についてはここ「はてなブログ」若しくは、小論としてpdf公開しようと思う。

 

・コトバは私たちの内面に常に潜み、ある形を成したとき様々なコトバとして表現されることを望んでいる。咽び、笑い、怒声…さまざまである。

 

・焦り。20歳ともなりつつ、手に掴むような何かを持てていないことへの焦燥。その焦燥と共に、退避的であろうとする私の<本質> 最早これを甘えと形容するのは莫迦らしくなってくる。実は自分は人間ではないのではないか、言うなれば人間の下位互換性を持ったなにかの生物ではないかと思える。ひとは極地に立つとき、焦り、何かしらの、一応の脱出への行動を取るとするならば、私はひとではない。

 

・まだ若いので今年の目標を立ててみた。『絶望』の小説を書き終える。「意識と本質」の更に深い理解と共に読了。古典ギリシア語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、古典語(古典日本語は外国語と見做している)をそれぞれ到達段階を設定し、今年度中に達成する。哲学史を現代哲学及び教育哲学、法哲学、政治哲学まで含み通史で学ぶ。

以上。