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死・絶望

死とはなんだろうか。いや、死というよりも人間の内面から発生する死への渇望はいったいどういうものだろうか。考えるに、死にたい人間というのは逃避の最終手段として「自殺」という手段を用いる。死を選ぶ権利は平等に在る。(しかし死を与える権利は無い)

逃避の最終手段として死が選ばれる訳は、その後に「何もない」であろうという前提が想定されているからであろう。「死にたい」は「楽になりたい」であるというのは自明である、「楽になりたい」というのはつまり現在進行形でなにかしら精神的困窮を与えてくる要素からの脱出、つまり「無」への渇望と見做せる。

だが、死後の世界を無と無条件前提としてしまっているのはあくまで死後に自分の思惟や感覚が存在しないという下での話である。死後の世界を知って、更にそれが現世と同じ苦しみを味わおうものなら、どうであろう。死にたいと願うだろうか。

 

少なくとも日本で未だ仏教的思想が残っていた頃には、死はあくまで通過点であると考えられていた。輪廻転生がその最たる考え方であって、あの思想下では「自殺」はおそらく許されず餓鬼道か修羅道へまっしぐらだったろう。だから当時の人間たちは生きて善行を積むことが大前提だった。

現代ではどうか。私たち日本人の根本的仏教観というものはかなり薄れてきただろう。即ち私が言いたいのは、仏教が日本人の根底にしっかりとあった時代から、仏教観が薄れた科学実証主義時代の現在の間に「自殺」が個人内で是正される何かがあったというわけだ。

ある自殺学によれば自殺とは「自殺が最善の解決策と誤って認識された結果生じる行為」である。また、その自殺選択がたいてい「生きるか死ぬか」の二者択一であるということも重要な点であろう。生きるか死ぬかの二者択一というのは、当たり前なのだけれど、恐らくここで言いたいのは「生きると死ぬ以外に、趣味に没頭する、無心で働く、恋人や片思いの相手と過ごす、勉学に励むなどという苦痛を死以外の別方向によって見えなくする選択肢が用意されてない」ことであって、だからこそ「誤った選択」と述べられるのだ。(考え方からすれば賛成なのだけれど、希死念慮のもたらす盲目性は本人の歩み寄りと周囲の理解がなければならないだろうから、これを現代で行使するのはまだ難しい気がする。)

ここで挙げられる自殺への箴言

  • 合理的な自殺はない。しかし、急性の精神病状態の人にとって自殺は合目的。
  • 自殺を考えるのは異常ではない、唯一手段と考えるのが異常。
  • 自殺を愛に対する敵意と誤解してはならない。身もだえするほどの苦境への極度の苦悩と考えよ

などがある。ここに既に、死にたい人と、死にたいと思わない周囲への準敵対状態が形成されている。考えて見れば、死にたい人間というのは周囲の人間に甘えられない状態に陥っていることが多い。または、とても健全な生き方を出来ないほどの病を患っているか。たいていはこのふたつに当てはめられる。

 

ところで死にたいというのは、様々な「喪失」から来る。友情・愛情などの形は成さないが心的喪失を及ぼすものや、関係のある人間の死という実存的な亡び。周囲から虐げられることによって自分の居場所を喪失することからくる虚無。自分から直接見ないものの周囲や媒体によって必要以上に流れてくる様々な喪失を知ることから起こる、ただ悲しむ自分。自分が何を知っていて、何を知らないのかがわからなくなる…詰り内面的に既成されていたものがすべて綻ぶ喪失による思惟的盲目。

悲しみを付随するときがあれば、既に悲しみが枯れてしまっているときもある。

 

死への望みが濃くなるのはたいていー私の経験上の話になるがー絶望と言える何かを伴うときである。その絶望は必ず他者が関わり、影響を持つ。私的経験上、最もそれを苦痛として感じられたのは、やはり友人やペットを喪ったときである。若くして亡くした友人…私が確かなる友人として言えるのはこの人で最後ではないかとも思う。死人を友人と言ってしまうのはどうかと思うが、確かに友人であったのだ。そして友人と思い続けているのは「変わらない」からなのだろうか。人は生きてゆくうちにやはり変わらざるを得ない、環境が変われば人間関係も変化する、友人というのは私にはコロコロと変異するものではなく、確固として「友人」であって欲しいのだ。だから友人や親友と言うことにひどく抵抗がある。(この話は「永遠」を求める恋人間に似たものがあるだろう)

蛇足だった。死にたかった友人は望みどおり死を手にした。私はそれでよかったと思っている、心から。だがそう思っていても、こう書いていて、思い出せば再び当時の絶望は舞い戻り、私の眼を濡らそうとする。あの絶望はいったいなんだったろう。

 

絶望とは形を持たない、だからこそ絶望なのである。形を持った絶望とは、より具現化され、表層的意識として知覚される。(そしてそれはぜつぼうではない)絶望とは表層意識から溢れるものではない、深層意識(無意識)から本人の意思とは無関係に溢れてくる、なにか真っ黒な液体のようなものだ。(Fate/zeroで言えば聖杯の中身だと思ってくれればわかりやすい)本人が偽りの表層意識を持っていても、まったく無関係に絶望はもっと奥深くから現れる。どうしようもない嘔吐感、身体の硬直、恣意的思考の停止が私たちの身に及んでくる。その黒々とした液体は、わたしたちのこころから蝕み始め、身体全体を包み込んでくる。私たちが絶望を肌に感じられるのは、その身体を包み込まれた後である。どうしようもなく、救いようがなくなってから、はじめて私たちに「絶望」だと認知される。

また、そのときは完全に没主観的である。絶望を認知したときの私たちは、幽体離脱のような、自分とはまた別の自分から、本来の自分を眺めている気分に陥る。そして私たち自身にその絶望は取り払うことは出来ない、死者が蘇ったり、復縁したり、友情を取り戻したりなどせねば絶望消えない、いや絶望は消えずに私たちの表層で別のものに変わるだけなのだが。

 

ところで、私が思うに「失恋」はかなり最たる絶望になりうると思うのだがどうだろう。失恋後はたいてい、関わりを持たなくなる。下手すれば、二度と姿も声も見ないことになる。これは死者とのそれに似てはいないだろうか?勿論依存から孤独への変遷もあるから一概に言えないことであるが、この依存状態も、友人関係が良好でなかったり、社会的に孤独な立場の人間にばかり起こるものであるから、そのひとの依存性を咎めることもできない気がする。

 

 

こう書いていたら、なんだか私は死にたい人間を冷静に見つめている気分になる。また、これを読む人からしてもそう思われてしまっているかもしれない。だが私はれっきとした絶望の体験者であり、死にたがり経験者でもある。だから、死にたい人の気持ちはまったくその状態から疎遠なひとより、寄り添って考えられていると思う。しかし私は、決して幸福論者や生きたがりになったわけではない。人生は恐らく苦痛がほとんどだし、生きるか死ぬかの分かれ道に来たら躊躇せず死の道を選びそうなものだ。

言っておきたい、ひとは苦痛や絶望から目を逸らすために幸福を得たがるのだ。そして幸福の中に居る人間にはたいてい、ほとんど絶望の渦中にいる人間など見えもしない。友人(と思っている人間)が多いひとは、友達がいないと思っている人間とは相容れない。そういうものだ。いつだって、死や絶望から目を逸らし続ける人間と、私は関わりたくもない。