節目

今週のお題「20歳」

という題目でブログを書いてみることにする。

 

私は今ちょうど20歳なので、このネタは他の人よりも鮮度が高いことが予測される。で、20歳といえば成人式が最も大きな行事なのだろう。しかし、成人式に参加しなかった私にとっては単なるニュースネタであって、直接経験として植えつけられるネタではなかった。

では私にとって20歳は節目ではなかったというと、そんなことはない。偶然か必然か、20歳はある意味で私にとっても重要な転機であった。それは以前から私の文章を読んで下さる方々にしてみれば、もう見飽きたことなのだが、折角なので(多分最後の)20歳ネタを再び書こうと思う。

 

「努力」というものをできなかった私は、高校受験に失敗し、大学受験もそれと似たような状態で、今はただのフリーターである。周囲の期待を悉く裏切り、親孝行もせず、全くもって生きるに値しない人間なんだろう。それはきっと他者からの視点なのであって、私自身の話が抜け落ちるのはアンフェアだろうから少し書かせて頂きたい。

私にとっては「今」というこの時点が重要らしい。過去に書いたように「生きる意味」とか「大学に行く意味」とか「友人が必要な理由」とか「死にたがりが忌避される理由」とか、いろいろあるけれど要するに「〇〇の理由、意味」が未来にそのまま関わってくるせいでまったくわからないのだ。両親や幾人かの知り合いに聞けばその答えはすべて「将来、未来」の想定をベースにしていた。「将来のための貯金」「安定職に就くための大学卒」とか、そういうあたりである。

彼らにとっては、それが当たり前で、考慮にも値しないレベルの前提だろうから、私の「現実直観」は意味不明に思われているに違いない。今我慢すれば将来は楽になるのだろうか?今楽したら将来は苦難が待つのか?そうした話に対して彼らは直ぐ「可能性」の話を持ち出す。可能性が高いから、みんなそうしているから。なら私たちの主体は想定されないのか?

 

私たち自身が何かをしたいという動機は心理的にも大きな効用を持つことは今更言うまでもない。だがそれは、主体的な夢や願望を叶えるためなのであって、そういう望みを持つ主体にとってその過程は本来なら楽しめるものなはずである。(私がそう)

それを安直に、可能性の高さや、安定という言葉に流されてしまうのはどうなのだろう。(莫迦にしているわけではなく『みんなそうしているからする』というのが嫌いなのだ〔主体性の欠如〕)将来のことなど私には割りとどうでもいいことであるし、自殺することへも否定的ではない、だから一応他者を遠ざけてきている。けれど人間とは不思議なもので、こうした社会的とは全く言えない思想を持っていると「世間」から後ろ指さされている気分になってくる。それでも変えるつもりはないのだけれど。

 

 

で、20歳になったとき私は「哲学」に出会った。それ以前も知っていながら、大まかな本質など掴めぬまま、その殻だけ知っていたが、哲学の本質に出会った私はさきほどまでの感覚を大きく揺さぶられるような思いであった。この「今」という問題に立ち向かう態度を哲学から感じ取ったのである。今ここにある問題に対し、世俗的な解を求めずにその本質に立ち向かおうとする態度は、社会的な人間には得られぬ経験なのだろうと今でも少し満足げに思っている。

「今」を問い、「社会」を問い、「意識」を問う。なにか目的を思ってそれを問うのではなく、わからないから問うし、世俗では納得できないから問うのだ。この態度はきっと、両親や、先程の知人にはわからないだろうから、私はその意味で特別なのだ。満足に「哲学」しようとすれば、大学機関や学会などを目指さねばならないだろうけれど、私はあくまで「独学」でこの「哲学」を満足したいという思いがある。誰かに導かれるのではなく、独断的に、(ある意味)反社会的に「哲学」を営むことが私にとっての至福で、また今の自分を初めて肯定的に受け入れられる要素でもある。

 

こういった人生での転機を、ひとつ、私は20歳で迎えた。だから成人という社会的な意味では私は20歳にもなっていないだろうが、内面的、精神的には20歳を迎えられたのだと安心する。