自意識と劣等感の狭間
ところで、ひとつ現実に返って、ぼくからひとつ無用な質問を提出することにしたい。安っぽい幸福と高められた苦悩と、どちらがいいか?というわけだ。さあ、どちらがいい?
これはドストエフスキーの「地下室の手記」の一節。久しぶりの更新でこんな始まり方はどうかと自分でも思うが、今の心境はそれどころでないから仕方ない。
ふとしたときに劣等感が私に襲い掛かってくる。己れの底から湧き上がってくるものではなく、いや本当はそうなのかもしれないが、何かしらの「像」によって相対的に呼び覚まされる。自尊心によって私というものは支えられているように思う。「おれには出来るはずだ。」「おれは賢いのだ。」「あいつらは何にも気づけていないのだ。」そんな具合だ。可哀想過ぎて見ていられない私の自尊心は、ふとそれを支えていた「虚実」「虚勢」の綻びと同時に崩壊した。
己れの真実を真っ直ぐ伝えることのできないままここまで生きてしまったのだ。誰に対してもである。
いつからか嘘偽りで繕われた自分は、あるとき真正面からやってくる正直者に殺されそうになる。全て自分の所為なんだと知りながら、それでもそれまでの自分を否定することはしない、後悔したとしても、だ。
結局私は尊大な自意識と自尊心(そしてそれは虚である)を持ちながら、それに知らない振りをしながら過ごしてきたということだ。何かのきっかけで絶望してしまう、それは己れ自身に対してであり、改善を要求するものでもない。ただそのときに絶望し、呆れ、自分の存在自体を疑い、劣等感に包まれていく。
もしかすると、私はこの劣等感こそ本質なのか。すべては「思い出してしまう」ことでの絶望か。ともなれば、この絶望は放つことが許されず、己れのなかで永遠に漂わせるしかない。
今までの自分を消し去りたい。記憶ともども、である。新たな自我として「私」を得たい。これまでの私は必要なかった、間接的に存在しただけであって、その本質は「虚」、ただの抜け殻、虚ろである。変える努力をせず、ただ足りないものを「虚」で補い、それに安っぽい幸福を得ていた。その安っぽさの自覚と共に「高められた苦悩」がやってきた。答えのない問い、「現在」ではどうしようもない苦痛。
偽ることでしか己れの在り処を見つけられなかった。私にかかわることは、すべて私の偽りに関わっている。
逃避することしかできなかった哀れな男の姿。