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自我

突発的な思いつき、だが経験的に有効であった人間関係からの一時的離脱を試みた。LINE、Twitterに多くの関係を依存していたがため、そこの関係を一時的とはいえ拒否するというのは孤独への渇望と相違ない。本来の友人、知人というあり方は「一度適当な関係になれば多くの場合その後も同様の関係を保てる状態」であるのではないか、と過去多くの人間と過ごしていた期間を思い返しながら考える。その友人という概念、そして関係へのあまりにも安直な結びつけが私には我慢ならなかった。つまり、こういうことを私と同様に対話することができる人、またはその対話の延長線に居る人に私は「友人」という概念を積極的に与えたいと思う。拡大的に歪曲すれば、考えない人は友人に入れたくない、という選民思想になるわけだ。あながち間違いでもないし、そうした文脈で語られるときの意味は「お前はなんと哀れな考え方をしているのだ」ということだ。だが私にとっての友人像は憧憬であり、夢でもある。今まで沈黙を守り何も反論せずに居た時期の感覚が、ようやく言語という形を得て内在し、意思として表されるようになった。友人が居ないことを蔑まれても構わない、私はようやく数少ない「私のあり方」を見つけるに至った。

 

この感動とは素晴らしいもので、見える世界が変わるというのはこういうことかと思わせてくれる。人生というものを今から語るとすれば、この「他者にまったく影響されない超越的自我の獲得の連続」ではないだろうか。以前から私は、人間とは本来孤独なものであるという持論を語っていた。自分―他人という関係は決して壊れることがない、またお互いに望んでいてもその溝は完全に埋まることはない(その溝が埋まるというのは、自分が相手になり、相手が自分になるということである)。そうした埋めることの叶わぬ関係であり、また多くの人はそこで葛藤し続けるのだろうが、そうしたとき、ふと「自分である」という不思議さに襲われるのかもしれない。なぜ自分は自分であるのか、この絶対的に近寄れない「他者」という部分はいかなるものなのか。

また、この葛藤によって「自分が何者であるか」というアイデンティティの不安を抱えるはずである。青春病、厨二病などという名で語られるこれは、その名を与えることで解決するものではないのだが、どうして彼らはその名によって安心するのか。それはともかく、私もそうして不安を抱え、他人によって生かされ、他人によって自分であり続けることになってしまうのかと思った。そうした境界を彷徨い続けることが「自分である」ことなのかと。この答えを私は「超越的自我」(即ち本来の「自我」)というものに見出すこととなったのだ。

 

たぶんこの不安を解消できた人というのは、何かしらの形で「超越的自我」を獲得し、不安にケリをつけられた人なのではないだろうか。それらは超越性ゆえに揺るがないものであるが、それを複数得ている人間がまれにいたりする。その人間の安定感は凄まじいもので、完全に自分という立ち位置を理解し、そこから受容も発散もすることができる。羨ましいものだ。

 

 

私には友人らしい友人が居ないので、また親しい関係にある人とも恣意的に距離をとっているので、ほとんど確かに孤独なのである。孤独は私にとって苦痛で、最近になってそのことに漸く気づいた。人とかかわるのが好きであったのに、変な拗れ方をしてしまった。だがこの孤独という条件で、私は私でありつづけられるのか?という面白い実験を思いついた。以前にも似たようなことをしたことはあるのだが、そのときのこれは意味をもたせることはなく、ただ逃避のツールとして使っていたに過ぎない。だが今の私には切迫したこれを行う必要が出てきた。この頃他人によって自分を縛っていることがわかり、私はそこに負荷をかけるかのように他人に依存した。その結果どうなったかといえば、死にたくなったのである。なんとも情けない話である。

人と会うというストレスの解消方法でもあった快楽が重荷になり、私自身を縛る要因になった。私のそれによって、少数ではあるが好きな人たちに不安と心配を与えることとなったのだ。この孤独環境の実験によって私がうまく生きることができれば(つまりストレスの解消を己れのみで行えるようになるということ)、是非ともその人たちに対する謝罪とともに、生死の狭間で彷徨うことがなくなったということを伝えたいと思う。