不穏の書、断章 フェルナンド・ペソア

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「私はなぜ あらゆる人 あらゆる場ではないのか?」

 

 

ふと手に取る本に運命を感じることが多々ある。その運命に導いたのは自分の直感でしかないのだが、こういう直感というものはなかなか侮れない。

 

知る人ぞ知る詩人、フェルナンド・ペソアリスボンの生まれ。ポルトガルの詩人であるが、評価されたのは大量の遺稿が見つかってかららしい。

 

私はこのペソア、いやアルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、アルヴァロ・デ・カンポスという人間に対して何を語れるのだろうか。訳者である澤田直曰く「ペソアは読者に憑く」と述べている。それは澤田氏がペソアを訳したいがためだけにポルトガル語を独学したという体験談からも感じ取ることができる。

本書は数ある異名のうち、ペソアにもっとも近いとされる ベルナンド・ソアレスと先ほどの複数人による詩である。もっとも、私にしてみればこれは箴言集であるように思えた。

 

詩人はふりをするものだ

そのふりは完璧すぎて

ほんとうに感じている

苦痛のふりまでしてしまう

 

 

人生において、唯一の現実は感覚だ。

芸術において、唯一の現実は感覚の意識だ。

 

 

あらゆる真の感動は、知性にとっては嘘だ。感動は知性の手から逃れてしまうから。

 

 

私たちのなかには 無数のものが生きている

自分が思い 感じるとき 私にはわからない

感じ 思っているのが誰なのか

自分はとはたんに 感覚や思念の

場にすぎないのだ

 

 

子どものころ、私は別人だった。今の私へと成長し、忘れてしまった。

いまでは沈黙と掟が私に属している。

私は得たのか、失ったのか。

 

 

今の私は、まちがった私で、なるべき私にはならなかったのだ。

まとった衣装がまちがっていたのだ。

別人とまちがわれたのに、否定しなかったので、自分を見失ったのだ。

後になって仮面をはずそうとしたが、そのときにはもう顔にはりついていた。

 

 

人生は意図せずに始められてしまった実験旅行である。

 

 

愛は永遠の無垢

唯一の無垢 それは考えないこと

 

 

ただ夢だけが永遠で美しい。それなのに、なぜあいもかわらず語り続けているのか。

 

 

 

印象的な部分を断章から引用した。悩める多くの人はこれを読みながら、自分がペソアになった気がしたのではないだろうか。悩みの対象があるわけではない、言い方を変えるならば空虚に対する思念が浮き続けているような感覚だろうか。少し憶測をするならば、ペソアは自分という存在に対してつねに哀しみを抱えていたのではないのだろうか。美と無と<私>が言葉を変えて次々に語られる、その光景は私たちがふと自分という出発点からさまざまに懐疑し、思索的に沈んでゆく姿と似る。

もう一人の自分が欲しいという願いは多くの人に「夢」という願望として持たれる気がするが、生きていくうちにその「夢」は悲観すべきものとして現実化される。あの頃思い描いた私という存在は、仮面をかぶり続けることによって成立した。しかし、内なる私を記憶によって否定的に呼び覚ましてしまうとき、二重人格というものは理想と現実の狭間で発生し、己れは行き場を失い彷徨う(=苦しみ)。

 

ペソアとは私たちのペルソナであるようだ。おそらくペソアの詩を読んだあとに、自分の思考がペソアによってなされていることに気づくだろう。私の記事を読む少数の人たちがペソアを手に取り、読むことで、自分の思考がいったい誰によってなされているのか(=ペソア化、ペソアウイルス)考え、悶え始める姿を想像するのは実に楽しい。私はこれからこのウイルスを抱えながら生きることとなるのだ。

 

さて、私は誰であろう?