「無理をする」とは何か

18歳そこらの人間は、人生について大きな疑問を抱くことが多いだろう。人生の意味とは何か、将来の自分はどうなっているか。至極当たり前の疑問であり、それこそが「青春病」「激動の青春時代」などと言われる原因であろう。わざわざ期間に名称を付け、そう言うのであるから、きっと5年かそこらのうちに乗り切られてしまうようなことであるようにも思う。勉強もそうであるが、つらくてしんどい時にどれだけ負荷をかけて「何を」行うかによってその先の分岐点のうち、どのルートかに決定される。

 

自由意志云々の話には入りたくないので目を瞑りながら書くが、人生なんて自由なようで不自由(決定論的)な、そして決して万人受けすることのないゲームであるとおもう。「世界」という存在が恐らく唯一無変であるだろうにも関わらず、あるときは取り残されてるように感じ、あるときはまるで自分がその中心にいるように感じることがあるのは、その時点で「世界存在」とは人間を媒介にして相対的存在でもあるということになる。所詮そういうものであって、だからこそ「人生論」だとか「生き方」という、How ToのないものまでHow To化してしまうのだ。絶対的でなく、個人個人の差異があることを認めつつ、成功者に学び、模倣し、あわよくば自分もその成功者にならんとする。

 

そういう「人生論」に関する本の中では、とりわけ「努力」「考え方」が重要視されていると思う。尤も、私の母親が完全な精神論(患者)であったので、私はひたすらそれに反発してきた。それはいいとして、精神論は何がいけないか。それは先ず、論理的な裏づけが軽薄であることが多いからに思われる。例えば、理由A理由B理由C+一般的精神論という文構造がある場合に際しては、前項の論理的推量のほうが、後項の精神論を強度という観点から上回っている。価値観として「論理」が絶対視されてしまうことにはううんと首を捻ってしまうが、2000年相当の時の流れで中枢を担ってきた以上、強度を持つのは仕方ない。精神論というのは、おそらく格言や四字熟語、諺のように縮小化された項のみが残骸として残った結果ではないだろうか。例えばそれは、哲学の概説書のみを読むことで思想家が何をやったかをほんの数行でわかってしまうような気になってしまうものでもある。そのたった数行のために、一体どれくらいの人間と、金が費やされたかを考えてみれば、恐ろしいものだ。たったこれだけの理由によって精神論を否定するのは些か愚かなようなので、全面的に否定したくなったらまた考えることにする。

 

さて、タイトルはそんな精神論教育を受け続けた私が現状として抱えている大きな問題のひとつである。さまざまなものに対する「加減」というものを見失ってしまった。今では、逃避と、心身の破壊を目的に働いているようなものである。何故かといえば、単にストレスに起因する破壊衝動と苛立ちの矛先が自分にしか向かないということになる。ストレスの逃し方も知らなければ、休み方も知らない。人間としてのレベルが著しく低いようである。そして、私は今まで「無理をしたことがない」ので無理することがどういう状態なのかがわからない。本人が「もうこれ以上無理」というくらいまで切り詰めてやりきればその状態ではないか、と思ったりするわけであるが、私の心身は柄にもなく、自動ブレーキ機能搭載型(しかもブレーキが超早い)のでこれがなかなか難しい。早いところ身体にガタがきて欲しいのでけれど、これは私の0か10かの考え方によるものなのだろう。ああ、疲れた。