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寝こぼけ

前回の更新が78日前とはまるっと二ヶ月ブログを見てみぬ振りしていたらしい。なにはともあれ、とりあえず生きています。ただ自分の考えていた「蟄居」とはずいぶん遠いところにいるけれど、まあいずれ。

相変わらずの働きづめ、魂の労働。少しの間にヘーゲルヘーゲルヘーゲル、たまにそのほか。以前よりは自分の時間を確保できるようになり、読書に時間を割けるようになったかと思えばやはりそうではなく、私は読書が嫌いらしい。厭々読んでます。

 

ここしばらくを「人間関係」というカテゴリの中で生きていて、そうするとどうしても今までのように高踏的、というか夢幻的でいられなくなった。どうしても、ある種のヒエラルキーを持った関係の中で自分を位置づけるばかりになり、今まで確保していた「絶対精神的位相」の自分が薄れてきてしまったかなあ…なんて思う。その絶対精神てのは、ただ独り居るのみによってはっきり絶望し切れてしまう自分であったし、何者にも期待しない・されない異邦の者でもあった。

 

色んなことが無駄に思えた。クンデラではないが、無意味を祝すことはできなかった。他人は自分を理解しようと思わないし、自分も同様であった。とある共同体において自己の喪失はただ「マイナス1」なのであって、それ以上に何かを示すことは無い。関係の中に生きる自分らは数値であり、記号であった。こう考えていると、脱-自己状態のほうがずっとずっと生きやすいかもしれないとも思えた。でもそう考えられていても、あえて生き難くして生き、辛苦し続けるのは自分の性癖なのかもしれない。

 

もっと他人に嫌われたかった。このようなおれが好かれるなどと夢にも思わないが、好かれるのは甚だ面倒だ。期待を買うようなことはできれば避けたい(だが多くは避けられない)、やはり孤独万歳である。皆は自己愛に溢れており、そうでなくともたいてい自己本位、自己中心的である。何をもってしても他人が在るためには自分が必要でいて、その自分に先ず関心がゆくものであろう。ではこうしたことからの脱-事象は何であるかと言うと、極北的な滅私奉公(Selfless devotion)だ。自己本位的な人間が他人に関心を向けてもろくなことは無い、さっさと篭城してしまえばいいのに…と、こう言う自分こそがまさに同様の批判に当てはまる可哀相な奴だ。

 

「書くこと」から随分遠のいた。地味で即物的で俗物的な人間関係にばかり身を起き、自分を表現することが莫迦らしくなった。Ex-pressは内的なものを外に押し出すことによって成立する、その押し出す源はおそらく欲望と承認のどちらかだろう。そのどちらも見つけるに叶わなかった自分はin-pressである。