欲望・絶望

浮気は是か非か。何が浮気であるか。束縛の外側は浮気であるか。可逆性を保てているか、そうでなければ貴方を優位にするものは何か。

 

好ましく思っている人が、自分と違う人間と関わっていることに何処からか湧く憤りを覚える人は多いだろう。それは「嫉妬」と外部(言語含む)から称され、特に異性間に於いて(同性間でも起こりうる)恋やら愛やらと呼ばれる。めでたくその相手と交際することになると、何故かその相手を自分が所有しているような錯覚をする輩が居る。何を莫迦なことを、と思う。決して最後まで知る得ないであろう人間をあたかも知ったかのように、そしてその行動を規制しようとする。勿論そういう関係を求め合う者たちの間では結構だ、愉しんで欲しい。

 

私は相手が何者であろうと、その人間の自主性は何より尊ばれるものであると考える。浮気したい・色んな同性異性と遊びたい・殺したい・辱めたい…。そうした自主性は2タイプに分かれる。<私>が直接に関しているかである。浮気したい、はその当人と浮気相手Aとの関係にのみ完結する、ゆえに<私>は比較的近しい第三者であろう、この際私自身の許可等は特に関係がないように思う。交際関係は決して法ではなく、事前にそれを承認していればそれ以降の確認は必要がないように思う(気変わりしたら別)。しかし殺したい・辱めたいの場合、相手が<私>である限りでは相手と私の直接的対話によって求められるべきだろう。そこには自由対話に於ける欲望とその媒介についてよくよく話せばよかろう。因みに私は喜んで殺されてやると思う、たぶん。

 

こう色々と高みから書いてみたものの、実際にされるとどうなの?という問題はある。私は「絶望フェチ」なので、知られたくないことを知られたとき、なんとなく信じていた相手からの裏切りなんかは本当によく凹む。が、よく興奮もする。我ながら気持ち悪い。誰にも好かれたくなく、無関心か嫌悪を望む。さあさあみんな私を嫌え。

 

恋愛色恋沙汰をネットでもリアルでも見るが、なぜ大抵はどちらかが被害者ぶっているのだろう。人の気持ちを考えないのは悪、ならその人間は非難する人間のことをどれほどに考えようとしているのか。ロジックの問題ではない、自己批判能力が欠けていると私は見ている。自己を非難できても、批判できる人間は稀なようだ。その欠如を他人の批判、自分の擁護によって埋めようとする。ああ本当に醜い(自分も)。もっとカジュアルに、自由にしてもいいんじゃないか。いつかボロが出る関係ならば、早期に「所詮…」と思えるほうがいいんじゃないのだろうか。