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多数決

社会の多くは「多数決」を根底に持っていると思う。政治材料、政治史などを例に出さなくともそれはおよそ感じられる人が多いのではないだろうか。「多数決」とは「普遍・普通」「常識」にほぼ等しい意味を、私はここで使う。さらにこの「普遍性」は道徳感情や倫理心と結びつけて無言語下に暗喩されているようにも思える。ホットなテーマとして自分自身の体験があるので、一部改変しながら持ち出してみようと思う。

 

私は非-常識人で、ちょっとした道徳心は持ち合わせているものの、実社会を生きていくうえでの公的感覚(そんなのあるのだろうか)を持ち合わせていないようだ。これを病気に還元するのは簡単だが、いかんせん「中途半端」なものだから恐らくそこには帰着しない。例えば、寝坊して遅刻したりしてもどうも寝坊はなくならない。10を3には出来たが、1を0にはできなかった。そしてこの10を3に減らした私が、再び寝坊したとしよう。それに謝罪を求められる、10から3の努力は認められず、1か0かの世界で計られることになる。

当たり前なのだが、これが実社会の平均的様相である。

 

別の例を出そう。ある共同体の中に於いて、それぞれ役割が振られる。料理人、給仕人、支配人、案内人…諸々。私が立ち仕切る世界ならば、それぞれはそれぞれのことを行えばよい。それであるのに、どうも口出ししたがる人間が居る。そしてそういう人間はどうも「共通認識としてこれはすべきことだろ」と言う訳だ。常識ある人間は、それ以外の認識方法を持たないようで、自分の優位なようにしか解釈を行わない。その共同体で重要なことが何であれ、意見交流、指摘、反論、問題化…は一定のループである。そこの中で人間存在自体が問題視されるのであれば、その人間は疎外、迫害されるべきであるというのが「本音」の通常である。だが、こう簡単に割り切れるなら問題は起こらないのである。その人間には大きな問題があるが、存続してもらう必要がその共同体理念的、あるいは実物的にある場合であったり、その人間を格好の餌食として弱者と見做し、非難罵倒中傷、そして暴力し、自らの優位性を見せしめることもある。

 

これらはそれぞれ、私には最低最悪の構造であり、悪しき「常識理念」であると感じる。

といいたいところだが、多数決のよくないところはこの「多数決」を批判している自分が相対化され、懐疑に陥ってしまう点であろう。今はそんな細かい話は置いておこう。

 

 

なぜ、多くの人は謝罪を求めるのか。謝罪とは屈服ではないのだ、その人間の指摘されうる点を認め、更にそれによってある人間が実物的かつ精神的なダメージを負ったときにされるものだ。そこには「共同体」も「お客様」も介入させるべきではない、個人対個人になされるものであり、個人対共同体はありえない。これは神への懺悔と同じではないか。世の中で、狂っていると思われる多くの共同体では、謝罪が軽量化されすぎである。谷崎も言っていたが「日本語と云うものは相手を敬い、己れを卑下する言葉は驚くほど豊富」なのである。日本語は使用者を間違えると堕落した言語になる。

 

ごめんなさい、すいませんも言えない子は人としてどうなのか。というような教育、己れのプライドを損した事事を、他者にしか求めない愚かさ。そして生き殺しのようにその場には居座らせようとする鬼畜。さて、私は間違えているのか?