記憶―断片

桜が散るように、人が散った。今では顔も思い出せない、そこに居たのだという記憶の実在。記憶の中で、他の記憶と混ざり、別のものに変わり果てている。愛したのは一体誰かもわからない、実在を愛したのか、記憶を愛したのか、無を愛したのか。消失があるから有限は栄える、だがその有限が栄えるのはそれが消失してからのみという矛盾。人間は固形しか愛せないのだろうか、変化を含めて愛するというのはそれもまた変化まで含めた固形として見ているような気もする。見えるもの、考えられるものの可能性までしか見ようとしない。だから、終焉や、完成とは、一応に全体の見取り図である。そして、そこから感情を決定的に呼び起こすことも出来るのだ。他者が可変的である限り、自己の受容形態も可変的である。だが、他者が固定化されれば、自己受容は一旦完成を迎え、そこから先の形は自己変容を起こさぬ限り不変である。

 

 

 

空を見る。薄暗く、これは白か、グレーか、青か、などと考えめぐらせられる。薄暗いものを見ると、気分も薄暗くなってくる。尤も、綺麗な色を見たところで良い気分にはなったりしない。「良い気分」を忘れつつある。人間的とも呼ばれうるような歓喜と絶望の行き来をしなくなってきている。ただ薄暗い気分のまま過ごし、啓蒙もその薄暗さに落とし込まれ、退屈さに毒され続ける日々。案外これも悪くなくて、怠惰に過ごし続けることは生きているという実感を忘れさせてくれる。生きているという肯定的な実感は負担をかける、生きているだけではない、日々の言葉の氾濫に流される肯定的ニュアンスを心理的に感じさせる言葉もそうである。そこからの逃避の行き着く先は虚無的な薄暗い、あの空のようである。