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友人論

今日は外で読書とその評論のための構想を練っていた。今日行ったのは『喫茶葦島』という喫茶店。人気のようで、平日ながら足を運んで行く客が多かった。

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頼んだものはモカG1。しかし私は珈琲、もとい食べ物や飲み物に関する知識がたいへん乏しいのでこれがどのようなものかを説明することができない。

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珈琲、一杯のミルクと、瓶に入った砂糖が出された。この一杯を作るのにかなり時間を要しているようである。丁寧なつくりというのは好感が持てる、ゆっくり待ち、ゆっくり味わい、ゆっくり思索に耽ることができる。早足に出されたり、効率重視のような接客をされるとやはり気持ちの良いものではない。どこか急かされているような気がする。

さて味。珈琲はどうも苦味が未だに慣れずにとてもブラックで飲むことができない。しかしこの一杯、最初にブラックのままで戴いたが非常に飲みやすかった。苦味がかなり少なく、マイルドな味わい。

その後、ミルクを入れ、砂糖を一杯分入れて戴いた。うん、美味しい。この珈琲なら飲めそうだ。苦手なものを美味しく感じる瞬間は稀有であるから、今回の訪問は正解だ。味覚に乏しい人間であるゆえ、多少なりとも磨く努力をしなければいけない。また近いうちに再訪問したいものだ。


さて。私の私見を書いている上で、やはり願望としては、さまざまな領域に亘る文章を書きたいのだ。しかし私が普段考えていることがらが、あまりにもそれらの根底に存在しているため、私がどうにかそれを了解しないと二進も三進もいかないのだ。

現に関心の対象は言語と意識である。便宜的に簡潔に言うが、言語が規定する意味というものと、我々の受け取る部分に差異がある。また、言語自体の意味がどれほど画一的なものか。というものと、意識の中における私という問題である。

後者に於いては表面的な問題にはなりにくいのだが、前者が厄介だ。法律、政治、教育、スポーツ。何に於いても言語が引っかかってくる、私がそれを了解できていないのに、言語に降りかかって来られても困る。そういう訳で、あまり広い私見などはのべられないが故に、読んでいて面白いものではないと断っておきたい。



私は友人の基準を設けている、どうやらいつのまにか出来上がっていたようだ。連絡を取らなくても友人という関係はあるのだ、という言葉を見たことがある。大層な人間だと思いつつ一蹴した。

友人というものは私の中で、私に恩恵をもたらしてくれる存在である。そしてその人に対し、私が何かを求めたいという人が友人なのだ。ただ時間が空いたなら誘う、人数が足りないから誘う、そういった人(たち)を私は友人とみなしていない。あくまでその人たちにとって私は道具である。そして私はその人に対して興味を持てなくなる。

私が誰かを遊びや、食事に誘う際はその相手と行いたいことがあるのだ。恩恵をもたらしてくれると言うとなんだか不純な動機のように思われるかもしれないが、それでよい。他人からどう思われることも私には無害なのだ、私自身がこうしたい、こうありたいと思うことがあればそれであとは過ごすだけ。だから無味に誘われること、なんとなく本意ではなく誘われたりするとイラっとするわけだ。

なんと利己的だと思われるに違いない。それでよいのだ、利己的であることが自己の本質であり、利他的でありたいのなら牧師などをやっておけばよい。私自身にキャッチコピーなどつけるとすれば『利己的であれ!』などが宜しいだろう。



友人は少なくていい、その少ない友人に私をさらけ出している。それ以外の人にさらけ出すのは御免だ、身の上話だけでよい。美徳を語る前に、それは自分の本意であるか確かめたほうがよいだろう。