精神的東洋を索めて

やっと、身を落ち着けられそうである。まだこれからの錯誤はあるにしても、今までほど絶望的な立場ではなくなったことにひとまず安堵している。先日も少しここに書いたこと、それは東洋というものだ。私がひとりでに考え付いたわけではない、こういった心が動かされるほどの動機はつねに外部からやってくるものである。

 

書いたかどうか忘れてしまったので、一応書いてみることにしよう。

 

去年のある日、確か英語の参考書を読んでいたときだった。「英語達人列伝」という中公新書からの引用で、達人たちが紹介されていた。みな、努力家で、英語を学ぶにはこのようだ態度が必要だ、とも言わんとする内容であった。そこの最後、語学の秀才ではなく、天才としての紹介で井筒俊彦という人物が挙げられていた。引用されていたものは司馬遼太郎との対談である、簡単に言うと井筒にとって近代ヨーロッパ語はあまりに簡単すぎること、彼は30ヶ国語にも及ぶ言語に熟達したということである。(歴史歓談)

 

目を丸くした、英語だけでヒィヒィ言っている私には到底知らない世界だと。いや、しかし彼のような天才は学問問わず見ていて痛快な思いをする。そのとき私は哲学にのめりこんでいなかったし、彼のことは数ヶ月先まで再び見ないこととなった。

 

数ヵ月後、先日書いた「哲学の教科書」を購入し、哲学への世界へと足を踏み入れた。文庫で気になる分野の本をいくつか買うこととなったのだが、そのひとつに井筒の「意識と本質」があった。買ったあと、私はなんという本を買ってしまったのだと思った。しかし今読めば、これこそ私を更なる哲学へと導いてくれるものでもあるように思えてくる。

 

ちなみに副題は「精神的東洋を索めて」である、タイトルには「索めて」と書いたが、今の私にとっては「徼めて」のほうが正しいか。

 

これから行うべきことを、現時点で、実力はまったく加味せずに書き並べてみる。

東洋言語の習得。これがもっとも大きな作業になることが予想される。何故言語か、それはまず私が言語というものに興味、不信感を持っているのが第一。次に、言語というものを歴史学民俗学という枠から外して眺めてみることが重要だと考えた。なぜなら、言語というのは歴史そのものを反映しているといえる。私たち日本人の思考はすでに西洋化してしまっているが、言語はどうか?輸入語や造語も増えてきて見づらくなって来たが、開国前、さらには蘭学以前の言語を見ることができればそれは東洋のコトバではないだろうか。そのコトバの多くは、おそらく、現代にも残っている。なら私たちの精神はまだ東洋に残っているのだ、これは残された手がかりでもある。

 

仏教へのアプローチ。東洋といってまず考えられるのは仏教である。宗教であって、哲学ではないという考えの方々もいらっしゃることだろう。私もそうだった。しかし当時の私や、それらの方々が言う哲学とは果たして東洋まで含めていただろうか。否、西洋のみであろう。西洋における哲学は宗教と混合されうるものではない気がするが(「神」の存在は別とし)東洋においては思想、哲学、宗教のこれらは密接に関係しうるものだ。その中でもっとも大きな存在が、仏教である。これを追わなければならない。井筒は幼いころから禅に親しんできたが、私はまったくの無知だ。体験することが必要になるかもしれない。

 

今や、西洋哲学だけで展開していてはならないのではないか。新たな「知」は東洋哲学にあることだろう。そしてその哲学の叡智を集めたのちには、西洋東洋の統一、というよりかは東西文節を取っ払ってしまいたい。いつまでも西と東に拘っている時代は終わっている、その足がけになりたいというのが今の気持ちである。

 

 

 

今までなりたいこと、やりたいこととは漠然としていて、曖昧で、暗闇のなかを手探りで居るような感覚だった。嘘偽りで自分を騙し、心の動かされないものを目標とし、人間的に堕落していた。私は妥協し続けたのだ。

 

今はどうだ?やりたいことを見つけた、確かに困難ではあるが私は今心が躍っている。周囲の人間に言っても何も伝わらないだろう、ほとんど孤独な作業になる、それでもやりたいと思えることが今までにあっただろうか。はじめて私のやりたいこと、為すべきことを見つけた気分だ。何度も挫折を味わう事になるだろう、しかしやり遂げてみようではないか。