本質論

某氏から

 

1.人の本性は変化するか否か

2.本性は善か悪か

3.本性は存在するか

 

という3つの問題提起に関してブログを書けと提言いただいたので、ここで喜んで書かせていただくことにする。勢いそのままに書くので頭の中で考えうるまま抽出することになるので読むに堪えないという場合は斜め読みしていただいて構いません。(駄文は承知)

 

 

この内容における本性は音韻の響きによる違和感はあれど本質と言い換えることが可能で、2は性悪説性善説から話を進めることが可能である。3は現象学時代サルトルの論文から引っ張ってこれるものである。

 

人間の本性、本質は変化するだろうか。言い換えれば、その人をその人たらしめる要素は果たして私たちの思惟や知識と共に移ろい行くのだろうか。私の回答その1はNoである。何故か。私たちは生まれながらにして先天的な「私的感受領域」を受け取っているものだと考えている。私たちが自己の感覚を認識下で獲得してそれ以降は、文字や人間や思想に浸され変容していくように思われるかもしれない。

だがヘラクレイトスのような…また諸行無常ではなく少し見方を変えてみれば「私たちにはあらかじめ自分の感受できる領域が設定されていたのではないか?」と考えることができる。それは即ち、その分野に於いて絶望的な人間と類稀なセンスを発揮する天才が居るという選民思想の一種を認めることになる。

「あの人は私とは違う」は今更異口できぬ、れっきとした真であって、私たちは絶望的な分野には感覚的な嫌気がするはずなのである。それは本人の無勉が問題なのではなく、先天的に備わった領域がそれぞれ異なることを示している。この領域はかなり厳密に設定されているゆえ、逆説的に私たちは<自分にできること=他人にできること>という等式を成り立たせがちである。これが現代社会での「甘え」の図式にも適応されるのであろうが、それはまた別の話である。

要するに、さきほどの領域というのは新たな知識を獲得しても広がらない。知識は万人に受け入れられるものではなく、またその知識に対し自分が能力を発揮できるかは獲得するまでわからない。言わば、私たちの知識を獲得する作業はマップ埋めのようなもので、本性・本質はそのマップそのものと言える、マップ外へは行こうと思ってもそこはただ暗闇であり、それに酷い嫌悪感をおぼえることになる。(そこへ行くバグ技はあるかもしれない)

要点:先天的私的感受領域が備わっている。

 

 

次、私たちのこころの本質は善人か悪人か。

この二者択一ならば善人だと私は考える。他人のこころなど知れたものではないが、私は誰をも持ちうるこころの繊細さはあるのではないかと信じ、またそう考えている。私たちは文字を追うだけでもその人のリアルを追体験することができ、悲惨な追体験には心を痛ませ、喜びは共に味わうこともできる。だが同時に、まったくの他人に対して私たちは残酷になれるということも矛盾する事実として存在する。矛盾を相容れぬものとして、どちらかに同化させるというものは「論理として」正しいものであるが私たちの事実認識をひどく歪めることを危惧させる。この矛盾内での整合性は敢えて取らないものとする。

つまり、こころの本質は善であり、慈愛、自愛、他愛のこころを持ち合わせているにもかかわらず、私たちはそれをごく一部にしか…人によっては自分のみにしかつかえなくなってしまっている。

本質というものの本質は、磨けば光るものだと考えている。時代や社会やこころの痛む悪にさらされたわたしたちのこころは既に汚れきっているのかもしれない。だから私たちは親しい者に対する同調のこころを思い出し、その追体験としてこころを震わせることを、この「性善説」の現代的意義、そして私の信条として提起したい。

 

 

最後に、本性は存在するかどうか。ここまで書けば最早言うまでもなく、存在する。変わらず存在し、善のちからを持つ本性即ち本質はわれわれには存在している。

見えなくなっていることを、存在しないと解してはならない(またこれに対極から同様に言われることも十分にある)

 

こころは繊細であり、簡単に震えてしまうものなのだ。ほんのすこしじっとして無になり、親しい人の繊細な文章を読んで見よう。簡単にその世界に入り込んでしまうものなのだ。