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コトバって何やねん

コトバという術語が私に根付いてきた。この術語はもともと井筒俊彦の「意識と本質」にて使われ始めたものである。最初はただ使っていただけだったのだが、先著の理解もほどほどに進んでくると彼がどのような意図を持って「言葉」と「コトバ」を使い分けたかが解り始めてくる。

コトバは神であったと述べられるのはヨハネ福音書である。いつからコトバを神とする言説があったかというのは、私が知る中ではこれが最古だろう。そして井筒のコトバとは何を意味するかというのは、それは詰り「認知されるすべて」である。これだけれは勿論なにも伝わらない自身があるので私が理解した範囲で順に追って説明してゆこうと思う。

 

術語「コトバ」は私たちの霊魂をふるわせるものである。霊魂をふるわせたときに私たちは喜怒哀楽を表現する。美しいと感じたり、喜んだり、悲しんだり、悼んだり…それらすべてはコトバの作用である。私たちの感情それらはこころの叫びであり、コトバとの共鳴である。ひとが感情に疎くなるというのは、こころが曇り、コトバを感知できる繊細さを失っているといえる。(この要素が先天的だということについては前回の記事参照)

コトバは、言語にも存在するが、たとえば夕日を見たとき、たとえばひとの好意を受け取ったとき、たとえば親しい人を喪ったとき…私たちはこころの中で言葉を媒材として、口には出されぬが抑えがたい感情を受け取る。それこそがコトバの作用詰り本質である。

 

井筒が唱えたコトバの哲学とはこういうことだ。私はこの思想内容を知りえてから、なにかが変わったのかもしれない。井筒思想の評伝を多く書き述べている若松英輔が言うには、コトバは私たちの中に既に在るという。そして哲学の営みとは、それを想起すること(ιδέα)

 

私たちの霊魂(現代の精神というという音韻には合わない)は身体と共に在る。私たちが哀しむとき、たとえば親しい人を喪ったときその人は死者となる。心身がひとつであるとすれば、死者から私たちには何も与えられない…詰り私たちが哀しむことはないのだ。死者の霊魂はそれからも残り続け、私たちに語りかけてくる。それはコトバであり、またそれを私たちはこころの震えとして受け取る。こう考えると、神秘主義というものがオカルトチックなものでなく、コトバの形而上学として意味を持ち始めるのかもしれない。

 

私は絶望し、哀しんできた。そこに若松氏の著書から受け取ったやさしいコトバの数々がある、それを手にした私は強くなった。絶望こそが私の居場所であるのには変わりないが、その居場所からの視座が変わり始めた。やさしい語りかけというのはこうして私に想起させ、ぼんやりとだが使命を感じさせた。コトバってすげえ。