上から下へ


私は足を空へ運んだ。身を空に委ねた。




耳障りな怒声が聞こえる。おれに対するものだ、無視した。

泣き声が聞こえた。おれが泣かせたのだ、深く哀しんだ。

笑い声が聞こえた。おれの外で起こったものだ、入れなかった。


おれは、この長いか短いかの人生の中で幾つ失敗をしたろうか。何人を泣かせてしまっただろう。何人を喜ばせられただろう。



空に身を委ね、大地に引っ張られ落ちてゆく。あと何秒私は生きられるか。




幸せな人生だった。おれは満足していた。与えられたもの以上を望み続けたが、今までのもので十分であった。

人間同士の理解ができないことへ絶望し、言葉で何も伝えられないことに失望し、愛をも儚いものだと知り、永遠がないことへの恐れを抱いた。




不思議なことにあれほど死にたいと願い、いざこうして身を投げると、生きていることが恋しくなるのだ…もう戻れないが。



自分が正しいと信じてやまなかった。誰に対しても、自分は正しいと思い続けた。自分は認められる存在だとされるべきだと思っていた。だが、現実は、今日ここ、もうすぐ、私である必要もない、「1人」が、その全てを失い、無を獲得する。




もうすこしで地上になる。長かった。落ち続ける時間もそうだが、ここに来るまでが長かった。




叱られることを恐れ続けた。嫌われることを恐れ続けた。自分を自分として残せなかった。理想的な子、理想的な友人、理想的な恋人でありたかった。欠陥だらけのおれは、このまま生きて関わり続ける勇気はなかった。この自分とも付き合っていけなかった。

だから落ちた。




人間の声が聞こえる。喚いているようだ。ああ、おれを見ているのか。悪いことは言わないから、さっさとこの場から去った方がいい。

おれが粉々に砕けたあと、世の人はどう思うかわかるか?「迷惑な奴だ」「仕事を増やすな」さ。人間の死なんてもうありふれていて、考え慣れているんだよ。いつも通りさ。



脳裏に両親が映る。最後までおれとは分かり合えなかったね、何一つわからずじまいだろう。

脳裏に男性が映る。おれは人間関係がへたくそだったみたい、自尊心を損なってしまってたらごめんね。これからはいい付き合いを願うよ。


脳裏に女性が映る。ごめんね、やっぱりおれは生きていられなかった。もうおれにはあなたしかいなかったのに、それすら投げ捨ててしまった。ごめんね。




おれは、そこで、意識が途切れる。





頭痛

ただ頭が痛く他にすることもないのでつらつらと書いてみようと思う。

 

毎度のことであるが、私は調べものをほとんどせずに自分の頭のみで考察をする。怠惰とかそういう理由もあるのだろうが「本当に正しい情報」が何かを私は知らない。与えられた情報を正しいと鵜呑みにしてきた弊害だろう、突然何が正しいかわからなくなってしまった。私の頭には、つねに肯定する私と、それに反発する私がいる。この二つの相乗によって最善の解が導かれるようであるが、実際のところ、反発のほうが強い。今まで私はなぜこれを正しいと思ったのだ、どうしてあのとき聞かなかったのか、今私にとってこの問題への接近はどのように行われるべきなのだ…と。

 

正しい知識とは即ち正しいとされている現段階の知識である。その知識の振れ幅は大きく、学者に委ねられるしかない。平安京の時代には寝殿づくりの建物があった(教科書等に載っているものであろうから気になれば参照)。その中の泉殿という建物がある。この建物、字の如く井戸をがある建物なのだが、上部からの図から見るとこの建物は池につくられている、その昔に森蘊という方が「井戸を池に作るアホがいるか」と指摘して現在の学校配布教科書はやや改訂されつつあるという(それでも改定されていない教科書もあるというのでその怠惰さに驚き呆れる)

 

所詮こんな程度なのである、特に歴史を顧みる必要のある学問においてこれは顕著。その時代の様相をつくりあげるのは(立場は)エライ学者である。その中にもきちんと正当性を疑い続け研究する者もいれば、呆れるほど怠惰な学者もいる、働き蟻の例のようだ。私たちはそれに振り回され、幼年期で培った情報であるほどにその根付きは深くなる。対立化のシンプルな原因である。だから私のここでの懐疑を正当化しようという目論見もあるのだが、正しさというその場限りでの「真」を私は信じたくないのだ。いずれ変わるであろう正しさを、その場その場でまた新たに学びなおすというのはどれほど無益であろう、考えて見て欲しい。

 

この私の懐疑、どのような立場の他者であれこれを適応する。疑うことにマイナス要素を感じてしまうようなひとは、おそらく私には近寄ってこない。

 

信じてもらわねばならないか?

疑ってはならないか?

あなたの向ける情は一時的なものだと思ってはならないか?

あなたのその発言、どうせ変わるものとして見て、ああやっぱりと納得してはいけないか?

その他人に向ける懐疑を自分に向け苦悩してはならないか?

浮ついたような今の現状、生と感じなくてはならないか?

 

 

あらゆるものへの懐疑心、哲学への傾倒もあり、さらに深くなってしまったようだ。私にとって哲学とは処方箋でもあり、麻薬でもあったのだろう。人と関わらねばならんこの中で、特に親しげな距離の人間にこの懐疑は向けるべきでない…少なくともその素振りは見せてはならんとされる。ああ人間同士の集まるこの空間…社会では「私」などほんの構成要素でしかないのだ。「私」は目立つようなことや反抗心を立たせることを望まれていない、もしそうなることがあれば「私」の代わりに「誰か」が来るというだけなのだ。世界内部は循環の連続、ただ「私」が消え「誰か」が入ったというだけ。そしてそのことを知られぬままに動いていくのだ、なんと儚いことだろう。

 

「私」が「私」である必要なんて無いのだ。

 

 

 

 

 

 

感覚の世界で生きられるか

この世では…たとえばこのタイトルのように「感覚の世界で生きる」と言ってしまうと理性的認識、本能的行動に対して揚げ足を取られ「お前は感覚で生きられていないじゃないか」と言われる。おそらく多くの人間は『コトバはほとんど何も表わしえない』ことに恐ろしく鈍感なのである。意思の表明(それは自己暗示も含めてである)はコトバに乗せるのが私たちの持つ手段の中ではもっとも手軽で、意識的行動である。

にも関わらず、鈍感なそれらの人々は揚げ足を取るのが本当に大好きなのである。だがこれらを揚げ足取りと取るか、あるテーマに没する興味深い思惟対象の具現化と取るかはまた難しい問題なのだ。

 

蛇足から入った今回のブログである。

今私の読み進めている小説…アンナ・カヴァンの「氷」…の端々を読んでいると、愛ってなんだろう、依存って何だろう、絶望ってなんだろうと考え始める。ドストエフスキー著作では、愛と憎悪の分別がつけられない、未発達的人間ばかりである。だがそれらは彼らにとって愛である…それと同様なものを、この小説の「私」そして「長官」からは感じる。少女に対する異常な執着、傷つけることに対しての軽率さ、それは暴力(表現)を伴って表れる。愛することということは相手を傷つけたいという欲望と表裏を成すのだろうか、彼らの行動・真理の本質はなんなのだろうか。

 

本質というものを考えていくとき、私は今までに大きく勘違いしていたのだが、本質は統一的な、画一的な、分節可能な、われわれの理性的認識世界のものである必要はないのである。根本的本質は『一』である必要がないのである。私だけでなく、恐らく他のひとたちも、自分に認識可能な理知的本質を求めようとする、であるから自分の認知不可領域に関してはそれを本源的なものとして(ましてカオスであれば)認めないのであろう。

 

このカオス的本質は、精神的葛藤をさまざまに持つ者に起こりえる。はたまた、ロシア的精神の本質もカオスであるともされる。

自己の精神内をコトバであらわそうとし、また、あらわされようとする。一時的にそれに納得しつつも、結局それらは自分の何もあらわせていないのだと気づき、絶望する。コトバとは私たちの第一的感性になりつつあるが、精神の儚さや繊細さを、未発達のコトバで表するのはあまりに惨いのだ。人間は、弱ったときが最も繊細、いや繊細だからこそ弱るのかもしれない…が、コトバというものを用いる人の多くは、その繊細さ、儚さを表現することができないのだ。大切な人の死と、どこの家かもわからぬ者の死を同じ1人としてしか表現できないようでは、その人は精神の脆さを硬直したコトバで捉えることなどできないのだ。

 

感覚的世界で生きること、これはコトバの世界から離脱を試みたい人々に手向けられるひとつの逃げ道である。肉体のさまざまを放棄し、精神のみをユートピアへ据え置く。いつだって精神は「快」の世界にいるのだ。だがこれは可能であるかないかを考えるまでもない話である。

だがもし精神体験において可能であれば…と願う。

その人はおそらく「異常者」となるのだろう。

不安

おれはたまらなく不安だ

おれは今どこに居て、何をしていて

いやまったくもっておれが誰かすらもわかっていない

常々に目に見えぬ不安の塊に背をさすられ

おれの背筋はそこから凍りはじめる

 

それを溶かしたいからぬくもりを欲し

そのぬくもりを知らぬまま盲目のまま探しもとめ

ああこれがおれの居場所なのだと安堵もつかの間

背はふたたび凍り始める

そのぬくもりは虚だったのだ

おれの居場所はどこにある

またおれは虚のぬくもりを求めてさ迷う

はやくしないと全て凍ってしまう

 

 

 

 

 

 

このごろ更新してなかったですね。とくに理由はなく、たぶん私が怠惰なだけだとは思います。先月くらいまでは毎月がせわしなく何かが起こっていて心身ともに忙しかったんですが、身を落ち着けられるようになってきてからは特に何も起こらず平穏です。

 

生活は 読書、睡眠、バイト、食事のルーティーンなのは相変わらず。たくさん本を読みたいのに身体が言う事聞かないです、なんとかならんかね。

 

 

 

私の好きな作家に言及していたところ、そのひとりに吉本隆明って人がいるんですね。その人について私のからなにか見解を示して見て欲しいって言われたのでちょっと書いて見ます。

 

経歴は正直どうだっていいので、また調べられるから省略。どんな人か?って言われたら…そうだな「9割否定して1割肯定するような人」です。思想家だったり詩人だったり文章作家だったりマルクス主義についてあーだこーだ言ってたり社会運動にあれこれ言ったりと、結構いろんなことやっているひとなので一まとめにはできないですね。

文章作家には2種類いて

  • いろんな人の本や思想を取り入れてわかりやすくしたりそこから新たな見解を示す人
  • いろいろな思想に対して否定的に入ってYesを薄く、Noを濃く刻む人

がいると思うんです。後者は批評家なんかがそうです、小林秀雄とか江藤淳ですね。前者は多いので名前は出さないですけど、基本ベースが「同調」な人が多いので「解説者」に近いんです、観察者の立場でなく限りなく本人に近しい位置から語ろうと…また当人ならこの問題をこう語るだろうというような人。

 

で、吉本隆明って人は「世間」に流れている風のようなものに敏感でそれを切り刻んでいったような人です、つまり後者。私みたいな人がこんなエライ人になんだと言えないんですが、この人は世間的な普通をとりあえずNoから考えるような気がします、私がそうなので似たものはわかるってやつでしょうか。

 

食べ物に困ったら盗んででも食べていいんだぜ?人助けなんてできないって親鸞は言っているしおれもそう思う。円満な家族なんてないんだぜ。

こんなことを言うひとです。

 

吉本は人の思想を読み取るのがうまいです、マルクス、折口、小林、フーコー…書物からのみの読み取りもあれば、実際に対談した人たちも居る。で、吉本はその人の思想に埋没しないんですね(埋没に悪意はない)、批評家ってのはせいぜい数人くらいしか批評の対象として大きく取り上げられないもんですが、この人はあっちこっちの人の思想にあれこれ言います。確固とした吉本隆明というものを持った上で、その観点からさまざまに切り込んでいきます。

 

私個人的にこの人の言ったことで好きなのは「言葉の根と幹は沈黙である」ですね。言葉ってのは私たちの表層に出てきた時点でもう私のものじゃないんです、発してしまったらそれは私の思考ではなくまた別の独立した思考をもちうるものなんです。だから吉村は『沈黙こそが当人たらしめる本質だ』と考えていたんだと思います。私はまったくもってそれに同意ですし、それは既に私に考えられていたものでした。ああそうか、この人の気質って私と似ているんだ、って思いましたね。

 

 

 

美意識

音は汚れていて、無は美しい。

 

私はどうやらそのように感じているらしい。美しさとは震えるような、心の叫びを伴う。私は感覚により知覚されるものに敏感であるようだ、その知覚させる「モノ」に対して心が動くとき、私は「美しい」と感じる。

 

心の動きを知らねばならない。自分に正直であるには、また自分を主体とするならば自分の心の動きを把捉せねばなるまい。それがカオスであっても、コスモスであってもだ。

 

根源的「一」を求めようとする態度ではカオスは掴めない。そのときにただ「掴めないモノ」として終結させることでは、自分を掴むことなどできない。自分でない何かに動かされ続けるのだ。

 

美に忠実であることは、自分の心を知ることと同一。であるならば、自分の感覚をつねに研ぎ澄まさねばなるまい。なにかを見る、知る、感じ取るときのメタ認知から主体的認知へと移行するときに「美」が生まれる。

 

私自身の美意識が、人間においてどの程度普遍的かは知らない。だがこの美意識を追求したひとびとのことを今想えば、かれらは何を索めようとしたのか少し私にもわかるようである。

雑考…死・愛・コトバ・神など

死については勿論であるが、愛や神というものを考えるようになった。まず、死は精神を持つ人間に対してどのような意味を持つのか。これを私のこれまでの経験や、推測から考えてみたい。

 

死とは何であるか、唯物的か、精神的かでさまざまな考察がなされている。魂の離散であるとか、心機能の停止とか、あるいは生を享受する私たちの畏れであるとか、そういった話になる。この話は自分のみに焦点を当てたものであるが、一方で「他者の死」は自分に対しどのような意味を持つのだろうか。先ず「私の死」というものはハイデガーというエライ哲学者が「死は現存在のもっとも固有な可能性である」なんて言っている。ハイデガーというエライ人が言ったから重要なのではなく、この命題そのものが重要であると考えて欲しい。といってもこの命題は解釈の分かれるものではないだろうからそのまま理解することが出来よう。、死は万人に訪れるものであるのだ(固有の可能性と述べているのは人間として与えられる死は体感不可能であるからだろう)万人に訪れる固有可能性であるからこそ、私たちにはリアルに近似したものを精神的に味わうのである。

 

死の体験をすることは不可能であるにも関わらず(臨死体験は別として)私たちは「死にそう」なんてコトバを発する。本当に死ぬかはわからないが、死と云うものはどうやら苦しみと等式で結ばれるらしい。それは天寿を全うするような死よりも、殺人、服毒、投身自殺、災害といった痛みを伴うもののほうがイメージが強いからである、だからたとえば、心臓が掴まれたような苦しみ(精神)、燃え上がるような身体の熱さ(身体)を体験したときに安直にも「死」に繋がりやすいのである。この二例に心身を挙げたのは、精神的、身体的のどちらからでも私たちは「死」を想起し得るからである。死は肉体の喪失と云う唯物的観点からすればまるで畏れるに足らずと言うひともいるのだが、どうも精神面からの考察が欠落しているようだ。

 

精神面…ここから死を観察することは最初に述べた「他者の死」に繋がってくる。「私の死」というのは実体験として一度しか得られないモノであるにもかかわらず、そのときこの世には私の精神は無い(とされる)のだから困りものである、特に実証を重んじる人たちにとって精神面からの考察が薄いのもこのあたりに理由がある。だが、友人、恋人、家族(ペットも)、神…などの死が私たちの体験可能性としてある。その死(の直前)を目にしたとき、あたかも傍観者であるように思われがちなのだが、私はその人の死にほとんど同じ状態で存在していると考えている。

<この話をする前に少し死の話を別に考えておくほうがよい。大事な人(存在)を失った(死)とき、私たちはまだ生きている。誰かが死んでもあなたは生きている、これが傍にいる者にとって大きな苦しみでもあるのだが、それは兎も角、肉体的な死ではなく精神的な死はあるのではないかと思う。それを契機に「生」きてはいるにもかかわらず、まるで別人のように変化する人がいる。全員ではないが、少なくもないようだ。傍から見れば「生」きてはいるのだが、本人の精神、あるいは今までの人格は「死」んでいると見れる。死んでも生きているのは肉体であって、精神が死んでいないとは限らない。精神が死ぬ…私の経験からの話になるが、リアリティを感じられなくなるというところか。生きるものが生きているかわからない、いずれ死ぬというより生きてすらないのではないかという感情が生まれる。感情といいつつそこには起伏は無い、ひたすら平面にある感情だ。>

 

もう目の前で死ぬ人間を目の当たりにすると、特に依存度が高ければ高いほど、自分の精神は死ぬことになる、これもひとつの「死」であるのだ。だから「死」を目前にしながら、同時並行的に自身の「死」を精神的に体感することになる。

 

 

このように死を肉体的ではなく、精神的な方向で考えることとした。だが私にとっての「死」とはある意味甘美であり、救いであるからさきほどの話の中に私の「死」を求めることは出来ない。

一部の人間は所謂「死にたがり」である。他人に構って欲しいから言う人間もいれば、どう死ぬか、いつ死ぬか、誰と死ぬか、何をして死ぬか…なんてものをウンウンと考えて、ただ実行していない(未遂も含め)者もいる。他所から見るとこの両者を見分けることが出来ず、どちらも「死にたがり」という分類になる。死が美しいのはそれが固有物であるからに思える、動的ではなく静的なものに私たちは惹かれる。死とは人間にとって極限の静表現である、誰もが持つ可能性でありながら多くの人はそこから目を背ける。だからこそ少数の死にたがりの私たちが死をより深く観察し、想いに耽ることができる、死は私たち少数の甘美な思考・観察対象である。

 

また、救いであるのは多くの場合、現在の苦痛から逃れる唯一手段であるからだ。これはよくよく知られているかと思う、しかし下手に他の人間と関わり始めるとこの苦痛が他者にまで伝染する(さっきの精神的な「死」の話)

いやそもそも生まれてきた時点で親にはほぼ間違いなく関わらねばならないし、友人っぽい人たちとも連絡を取っている場合も多い。死にたいと言うと「苦しむ人のことを考えろ」と言われる、これはもっともであるが私の苦痛は全く眼中に入れられてない。日本人は調和を重んじるというが、こういった部分にまで醜い調和が存在してしまう。(たとえばデンマークなどでは親とは早い段階で離別するため、このような「調和」が重んじられず、教えられることが少ないらしい)

 

人が悲しむから死んではいけないのか、なら私の悲しみや苦しみをどうすればいいか?死んではならないと定言しつつ、具体的方法を聞くと「自分で考えろ」となってしまうわけだ。だから、というわけではないが私は死にたい人間に対して無理に生きろとはほとんど言わない、もしその相手が助けを欲しているのであれば私にできることはやってきたはずである。同じように悲しみ、同情し、必要であるなら傍にいるという形が死にたがりの私たちに多少の和らぎを与えてくれることをなんとなく知っている、だからそうしてきた。

 

死にたがりと何度も言いつつ、私はこのコトバがあまり好きではない。コトバ自体の性質上、何度も言うようであるが、意図するもせざるも発信者以上の意味を受信者に与えてしまう。死というと生が対比されるように、意図と言うと無意識が規定されてしまったり。コトバは常に争いの種である、さらにコトバはいつの間にか私たちの内面的な考察にすら必要になっている。自分に対してなら兎も角、人間は特に他人のコトバに対して敏感であるようだ。数々の論争などを見ていると、もう話し合いをしたいのか揚げ足取りをしたいのかわからない場面が多々ある。彼らはコトバの奴隷なのだ、コトバに良い様に支配され、コトバなしでは生きられないようになっている。

 

コトバの歴史は長く、また深い。異文化との言語面交流が難しいといわれ続けているが、同文化であるからといって簡単なわけでもない。対象が別のものであるゆえ比較はできないのだが、異文化間で難しいとされる理由は「文化」そのものである。食文化、風俗文化、民族文化…私たちの見地からは異質なものばかりであるゆえ、私たちの持ちうる文化的言語からは表現しきれないものが多いというわけだ。一方で、同文化内の差異は一般コミュニケーションではなく、内面コミュニケーションに顕れる。一般というのは、日常会話からビジネス会話までさまざまであるが、ひとことで言い表しづらいものなのだが「とりあえず微妙なニュアンスまで汲み取る必要の無いもの」と言っておこう。ご近所さんと話すとき「いい天気ですね」「温かいですね」「昨日はずっと寝ていました」などがあるが、これらは自己内面表記とは言いがたい。いや、気分を表すことはできるのだが細かい感情まで乗せる必要がないわけだ。その一方内面コミュニケーションでは自己対話も含め、微妙な感情、言い表しがたい感情などをコトバに乗せていきたい時があるのだが、適切な語彙を知らない、表現力が無い、伝達力が無いなどの要因もあり伝えきれない。かといって、語彙が豊富で、表現力豊かで、コミュ力の高い人間であっても、繊細な感情をそのまま相手に汲み取ってもらうことができない。どれだけ親しくても、だ。ここに葛藤を感じ続けるのは私だけなのだろうか…。

 

もう少し書いていきたいのだが眠くなってきたので切り上げる。

真似

3日前に風邪をひいた。正確にはもうちょっと前から喉が痛かったし、咳が止まらなかったのでそのときからだと思う。9時間勤務の日のバイトだったのだが帰る様命じられたので、うちのバイト先には感謝。飲食店なので風邪持ちの私が厨房に入るわけにもいかないのだが。

 

そんなこんなでここ数日はほとんど布団の上で過ごしていた、人恋しさはあれど、これはもう持ちたくないので口にもしないように気をつけよう。

 

 

私は本を買うスピードと読むスピードが違いすぎて積読が増えまくっているのだけれど、本は読みきるのが目的ではないというか、通読もひとつ目的ではあるようだが、本を買うという行為には「その本のをいつでも取り出せる」というメリットがある。図書館に行くことと、本を買うことの違いはこの部分と、更に私の場合は本に書き込みをするのでやはり購入の必要が出てくる。とは言っても、経済的にそろそろヤバイし、一人暮らしするとなれば購入も控えていかなければならないので自分の中で買う本と買わない本の見切りをつけていかねばならない。

そういえば、南方熊楠は12歳のときに、学校の帰り道の古本屋に寄って太平記を立ち読みして家でそれを書き写すという作業をしているうちに、半年で全50巻を筆写してしまったという。恐ろしい記憶力である、あの柳田國男が「人間の極限の可能性」とまで言う人物であるのは、凡人の私に多少の勇気をくれた。

 

こういった天才の話が実に好きで、英文学者の斎藤秀三郎や、井筒俊彦は「天才」というカテゴリから見つけることが出来た。だから斎藤の「中辞典」の全筆写は今続けているし、井筒は私の今後の研究対象として大きく影響を与え続けている。

 

そんなこともあり、この南方の逸話を聞きつつ私はどこが真似できるのだろうと思ったのだが「文章なりパラグラフなりを覚えて書き写す」という作業を思いついた。問題はこれをどの本を対象として行うか、なのだけれどたとえば現在読み進めている「意識と本質」なんかでやってしまうと最早拷問である。コトバの意味や使われ方、なにより出てくる用語が多すぎるせいで一行の暗記すらままならないのではないかと思う。読むのにすらナメクジのような速さであるのに、これを覚えるとなればやっている間に地球が滅びるかもしれない。

でも1冊ではなく、1章という単位で見れば、頑張ればどの本でも書き写せそうなのでやって見ようと思う。