不安

おれはたまらなく不安だ

おれは今どこに居て、何をしていて

いやまったくもっておれが誰かすらもわかっていない

常々に目に見えぬ不安の塊に背をさすられ

おれの背筋はそこから凍りはじめる

 

それを溶かしたいからぬくもりを欲し

そのぬくもりを知らぬまま盲目のまま探しもとめ

ああこれがおれの居場所なのだと安堵もつかの間

背はふたたび凍り始める

そのぬくもりは虚だったのだ

おれの居場所はどこにある

またおれは虚のぬくもりを求めてさ迷う

はやくしないと全て凍ってしまう

 

 

 

 

 

 

このごろ更新してなかったですね。とくに理由はなく、たぶん私が怠惰なだけだとは思います。先月くらいまでは毎月がせわしなく何かが起こっていて心身ともに忙しかったんですが、身を落ち着けられるようになってきてからは特に何も起こらず平穏です。

 

生活は 読書、睡眠、バイト、食事のルーティーンなのは相変わらず。たくさん本を読みたいのに身体が言う事聞かないです、なんとかならんかね。

 

 

 

私の好きな作家に言及していたところ、そのひとりに吉本隆明って人がいるんですね。その人について私のからなにか見解を示して見て欲しいって言われたのでちょっと書いて見ます。

 

経歴は正直どうだっていいので、また調べられるから省略。どんな人か?って言われたら…そうだな「9割否定して1割肯定するような人」です。思想家だったり詩人だったり文章作家だったりマルクス主義についてあーだこーだ言ってたり社会運動にあれこれ言ったりと、結構いろんなことやっているひとなので一まとめにはできないですね。

文章作家には2種類いて

  • いろんな人の本や思想を取り入れてわかりやすくしたりそこから新たな見解を示す人
  • いろいろな思想に対して否定的に入ってYesを薄く、Noを濃く刻む人

がいると思うんです。後者は批評家なんかがそうです、小林秀雄とか江藤淳ですね。前者は多いので名前は出さないですけど、基本ベースが「同調」な人が多いので「解説者」に近いんです、観察者の立場でなく限りなく本人に近しい位置から語ろうと…また当人ならこの問題をこう語るだろうというような人。

 

で、吉本隆明って人は「世間」に流れている風のようなものに敏感でそれを切り刻んでいったような人です、つまり後者。私みたいな人がこんなエライ人になんだと言えないんですが、この人は世間的な普通をとりあえずNoから考えるような気がします、私がそうなので似たものはわかるってやつでしょうか。

 

食べ物に困ったら盗んででも食べていいんだぜ?人助けなんてできないって親鸞は言っているしおれもそう思う。円満な家族なんてないんだぜ。

こんなことを言うひとです。

 

吉本は人の思想を読み取るのがうまいです、マルクス、折口、小林、フーコー…書物からのみの読み取りもあれば、実際に対談した人たちも居る。で、吉本はその人の思想に埋没しないんですね(埋没に悪意はない)、批評家ってのはせいぜい数人くらいしか批評の対象として大きく取り上げられないもんですが、この人はあっちこっちの人の思想にあれこれ言います。確固とした吉本隆明というものを持った上で、その観点からさまざまに切り込んでいきます。

 

私個人的にこの人の言ったことで好きなのは「言葉の根と幹は沈黙である」ですね。言葉ってのは私たちの表層に出てきた時点でもう私のものじゃないんです、発してしまったらそれは私の思考ではなくまた別の独立した思考をもちうるものなんです。だから吉村は『沈黙こそが当人たらしめる本質だ』と考えていたんだと思います。私はまったくもってそれに同意ですし、それは既に私に考えられていたものでした。ああそうか、この人の気質って私と似ているんだ、って思いましたね。

 

 

 

美意識

音は汚れていて、無は美しい。

 

私はどうやらそのように感じているらしい。美しさとは震えるような、心の叫びを伴う。私は感覚により知覚されるものに敏感であるようだ、その知覚させる「モノ」に対して心が動くとき、私は「美しい」と感じる。

 

心の動きを知らねばならない。自分に正直であるには、また自分を主体とするならば自分の心の動きを把捉せねばなるまい。それがカオスであっても、コスモスであってもだ。

 

根源的「一」を求めようとする態度ではカオスは掴めない。そのときにただ「掴めないモノ」として終結させることでは、自分を掴むことなどできない。自分でない何かに動かされ続けるのだ。

 

美に忠実であることは、自分の心を知ることと同一。であるならば、自分の感覚をつねに研ぎ澄まさねばなるまい。なにかを見る、知る、感じ取るときのメタ認知から主体的認知へと移行するときに「美」が生まれる。

 

私自身の美意識が、人間においてどの程度普遍的かは知らない。だがこの美意識を追求したひとびとのことを今想えば、かれらは何を索めようとしたのか少し私にもわかるようである。

雑考…死・愛・コトバ・神など

死については勿論であるが、愛や神というものを考えるようになった。まず、死は精神を持つ人間に対してどのような意味を持つのか。これを私のこれまでの経験や、推測から考えてみたい。

 

死とは何であるか、唯物的か、精神的かでさまざまな考察がなされている。魂の離散であるとか、心機能の停止とか、あるいは生を享受する私たちの畏れであるとか、そういった話になる。この話は自分のみに焦点を当てたものであるが、一方で「他者の死」は自分に対しどのような意味を持つのだろうか。先ず「私の死」というものはハイデガーというエライ哲学者が「死は現存在のもっとも固有な可能性である」なんて言っている。ハイデガーというエライ人が言ったから重要なのではなく、この命題そのものが重要であると考えて欲しい。といってもこの命題は解釈の分かれるものではないだろうからそのまま理解することが出来よう。、死は万人に訪れるものであるのだ(固有の可能性と述べているのは人間として与えられる死は体感不可能であるからだろう)万人に訪れる固有可能性であるからこそ、私たちにはリアルに近似したものを精神的に味わうのである。

 

死の体験をすることは不可能であるにも関わらず(臨死体験は別として)私たちは「死にそう」なんてコトバを発する。本当に死ぬかはわからないが、死と云うものはどうやら苦しみと等式で結ばれるらしい。それは天寿を全うするような死よりも、殺人、服毒、投身自殺、災害といった痛みを伴うもののほうがイメージが強いからである、だからたとえば、心臓が掴まれたような苦しみ(精神)、燃え上がるような身体の熱さ(身体)を体験したときに安直にも「死」に繋がりやすいのである。この二例に心身を挙げたのは、精神的、身体的のどちらからでも私たちは「死」を想起し得るからである。死は肉体の喪失と云う唯物的観点からすればまるで畏れるに足らずと言うひともいるのだが、どうも精神面からの考察が欠落しているようだ。

 

精神面…ここから死を観察することは最初に述べた「他者の死」に繋がってくる。「私の死」というのは実体験として一度しか得られないモノであるにもかかわらず、そのときこの世には私の精神は無い(とされる)のだから困りものである、特に実証を重んじる人たちにとって精神面からの考察が薄いのもこのあたりに理由がある。だが、友人、恋人、家族(ペットも)、神…などの死が私たちの体験可能性としてある。その死(の直前)を目にしたとき、あたかも傍観者であるように思われがちなのだが、私はその人の死にほとんど同じ状態で存在していると考えている。

<この話をする前に少し死の話を別に考えておくほうがよい。大事な人(存在)を失った(死)とき、私たちはまだ生きている。誰かが死んでもあなたは生きている、これが傍にいる者にとって大きな苦しみでもあるのだが、それは兎も角、肉体的な死ではなく精神的な死はあるのではないかと思う。それを契機に「生」きてはいるにもかかわらず、まるで別人のように変化する人がいる。全員ではないが、少なくもないようだ。傍から見れば「生」きてはいるのだが、本人の精神、あるいは今までの人格は「死」んでいると見れる。死んでも生きているのは肉体であって、精神が死んでいないとは限らない。精神が死ぬ…私の経験からの話になるが、リアリティを感じられなくなるというところか。生きるものが生きているかわからない、いずれ死ぬというより生きてすらないのではないかという感情が生まれる。感情といいつつそこには起伏は無い、ひたすら平面にある感情だ。>

 

もう目の前で死ぬ人間を目の当たりにすると、特に依存度が高ければ高いほど、自分の精神は死ぬことになる、これもひとつの「死」であるのだ。だから「死」を目前にしながら、同時並行的に自身の「死」を精神的に体感することになる。

 

 

このように死を肉体的ではなく、精神的な方向で考えることとした。だが私にとっての「死」とはある意味甘美であり、救いであるからさきほどの話の中に私の「死」を求めることは出来ない。

一部の人間は所謂「死にたがり」である。他人に構って欲しいから言う人間もいれば、どう死ぬか、いつ死ぬか、誰と死ぬか、何をして死ぬか…なんてものをウンウンと考えて、ただ実行していない(未遂も含め)者もいる。他所から見るとこの両者を見分けることが出来ず、どちらも「死にたがり」という分類になる。死が美しいのはそれが固有物であるからに思える、動的ではなく静的なものに私たちは惹かれる。死とは人間にとって極限の静表現である、誰もが持つ可能性でありながら多くの人はそこから目を背ける。だからこそ少数の死にたがりの私たちが死をより深く観察し、想いに耽ることができる、死は私たち少数の甘美な思考・観察対象である。

 

また、救いであるのは多くの場合、現在の苦痛から逃れる唯一手段であるからだ。これはよくよく知られているかと思う、しかし下手に他の人間と関わり始めるとこの苦痛が他者にまで伝染する(さっきの精神的な「死」の話)

いやそもそも生まれてきた時点で親にはほぼ間違いなく関わらねばならないし、友人っぽい人たちとも連絡を取っている場合も多い。死にたいと言うと「苦しむ人のことを考えろ」と言われる、これはもっともであるが私の苦痛は全く眼中に入れられてない。日本人は調和を重んじるというが、こういった部分にまで醜い調和が存在してしまう。(たとえばデンマークなどでは親とは早い段階で離別するため、このような「調和」が重んじられず、教えられることが少ないらしい)

 

人が悲しむから死んではいけないのか、なら私の悲しみや苦しみをどうすればいいか?死んではならないと定言しつつ、具体的方法を聞くと「自分で考えろ」となってしまうわけだ。だから、というわけではないが私は死にたい人間に対して無理に生きろとはほとんど言わない、もしその相手が助けを欲しているのであれば私にできることはやってきたはずである。同じように悲しみ、同情し、必要であるなら傍にいるという形が死にたがりの私たちに多少の和らぎを与えてくれることをなんとなく知っている、だからそうしてきた。

 

死にたがりと何度も言いつつ、私はこのコトバがあまり好きではない。コトバ自体の性質上、何度も言うようであるが、意図するもせざるも発信者以上の意味を受信者に与えてしまう。死というと生が対比されるように、意図と言うと無意識が規定されてしまったり。コトバは常に争いの種である、さらにコトバはいつの間にか私たちの内面的な考察にすら必要になっている。自分に対してなら兎も角、人間は特に他人のコトバに対して敏感であるようだ。数々の論争などを見ていると、もう話し合いをしたいのか揚げ足取りをしたいのかわからない場面が多々ある。彼らはコトバの奴隷なのだ、コトバに良い様に支配され、コトバなしでは生きられないようになっている。

 

コトバの歴史は長く、また深い。異文化との言語面交流が難しいといわれ続けているが、同文化であるからといって簡単なわけでもない。対象が別のものであるゆえ比較はできないのだが、異文化間で難しいとされる理由は「文化」そのものである。食文化、風俗文化、民族文化…私たちの見地からは異質なものばかりであるゆえ、私たちの持ちうる文化的言語からは表現しきれないものが多いというわけだ。一方で、同文化内の差異は一般コミュニケーションではなく、内面コミュニケーションに顕れる。一般というのは、日常会話からビジネス会話までさまざまであるが、ひとことで言い表しづらいものなのだが「とりあえず微妙なニュアンスまで汲み取る必要の無いもの」と言っておこう。ご近所さんと話すとき「いい天気ですね」「温かいですね」「昨日はずっと寝ていました」などがあるが、これらは自己内面表記とは言いがたい。いや、気分を表すことはできるのだが細かい感情まで乗せる必要がないわけだ。その一方内面コミュニケーションでは自己対話も含め、微妙な感情、言い表しがたい感情などをコトバに乗せていきたい時があるのだが、適切な語彙を知らない、表現力が無い、伝達力が無いなどの要因もあり伝えきれない。かといって、語彙が豊富で、表現力豊かで、コミュ力の高い人間であっても、繊細な感情をそのまま相手に汲み取ってもらうことができない。どれだけ親しくても、だ。ここに葛藤を感じ続けるのは私だけなのだろうか…。

 

もう少し書いていきたいのだが眠くなってきたので切り上げる。

真似

3日前に風邪をひいた。正確にはもうちょっと前から喉が痛かったし、咳が止まらなかったのでそのときからだと思う。9時間勤務の日のバイトだったのだが帰る様命じられたので、うちのバイト先には感謝。飲食店なので風邪持ちの私が厨房に入るわけにもいかないのだが。

 

そんなこんなでここ数日はほとんど布団の上で過ごしていた、人恋しさはあれど、これはもう持ちたくないので口にもしないように気をつけよう。

 

 

私は本を買うスピードと読むスピードが違いすぎて積読が増えまくっているのだけれど、本は読みきるのが目的ではないというか、通読もひとつ目的ではあるようだが、本を買うという行為には「その本のをいつでも取り出せる」というメリットがある。図書館に行くことと、本を買うことの違いはこの部分と、更に私の場合は本に書き込みをするのでやはり購入の必要が出てくる。とは言っても、経済的にそろそろヤバイし、一人暮らしするとなれば購入も控えていかなければならないので自分の中で買う本と買わない本の見切りをつけていかねばならない。

そういえば、南方熊楠は12歳のときに、学校の帰り道の古本屋に寄って太平記を立ち読みして家でそれを書き写すという作業をしているうちに、半年で全50巻を筆写してしまったという。恐ろしい記憶力である、あの柳田國男が「人間の極限の可能性」とまで言う人物であるのは、凡人の私に多少の勇気をくれた。

 

こういった天才の話が実に好きで、英文学者の斎藤秀三郎や、井筒俊彦は「天才」というカテゴリから見つけることが出来た。だから斎藤の「中辞典」の全筆写は今続けているし、井筒は私の今後の研究対象として大きく影響を与え続けている。

 

そんなこともあり、この南方の逸話を聞きつつ私はどこが真似できるのだろうと思ったのだが「文章なりパラグラフなりを覚えて書き写す」という作業を思いついた。問題はこれをどの本を対象として行うか、なのだけれどたとえば現在読み進めている「意識と本質」なんかでやってしまうと最早拷問である。コトバの意味や使われ方、なにより出てくる用語が多すぎるせいで一行の暗記すらままならないのではないかと思う。読むのにすらナメクジのような速さであるのに、これを覚えるとなればやっている間に地球が滅びるかもしれない。

でも1冊ではなく、1章という単位で見れば、頑張ればどの本でも書き写せそうなのでやって見ようと思う。

空欄

昨日今日の2日程度で思考がさまざまな方向性を持ちたがっているようで、死を考えた時間があれば、無気力を風邪のせいにするという動きもあったりした。そのため、内容は決して統制がとれたものではない

 

コトバ

今、この現在においてもっとも主要な関心は「自分の存在」についてと言えるのだが、それを書いていてはまた以前の内容の垂れ流しになりかねないので少し方向を変える。

モノを書くときに、それが極めて主観的立場にならぬようと言われることは多い。<ここで主観-客観の問題(客観って誰?)が私のこころで湧き上がるのだが、こいつには一度黙っていてもらおう。> 主観的立場と一語にすればわかりやすいようであるが、これがどういう性質を持っているのか考えて見ると…思うに…冷静さや、論理的というコトバたちとつながりがあるように見える。他人に伝える際に、自分の感情は抑えるべきであって、それがあまりに大きくなると感情論という次元に移行してしまう。そうなれば相手に正確に伝わらなくなってしまうだろう。これが主観的立場から離れるべきだというコトバに含まれる「意味」であるなら、およそ私も同感である。

 

(勿論ここで異を呈するのは読む方にバレてしまっているだろうが)私はここで少し立ち止まった。ここ最近の私のコトバの持つ効用としてあればいい…という希望なのだが『リアリティそのままに伝えることは可能か』ということを異を呈する一歩目として考えたい。冷静さと熱さ(ここではダイナミズム、リアリティと呼べば想像がつくと思う)はコトバの意味作用としては相対する地点にある。相対するということがらは一方の優位ともう一方の劣位が同時に反作用する、と今のところ考えている。だがら、ここで私が現在の苦痛や辛苦をリアルにコトバに乗せる事で伝える際に、冷静さというものは欠如しているように思われてしまう。このあたりが葛藤の要素であるようで、冷静さとリアリティを同時にコトバに乗せられないのだ。どちらか一方を棄てなければ、この気持ちを伝えることなど出来ない。

 

 

哲学の持つ学問性

哲学と言うと大層なものと思ってしまい、未だに「自分が哲学している」とは恐れ多くて言うことができない。私当人が感じている、現在の哲学に漸近する思考のそれは「思いつき」というのが正しいと思われる。(西洋)哲学と思想が異なると感じるにがどこにあるかと考えてみたところ、思想と論理が合わさったものが哲学になるのだという結論に至った。

 

それは兎も角

 

哲学と言うと私の祖父母の世代からすれば良いイメージがもてないらしい。主にそれは、哲学を志したがその根本原理を見出せずに自死した藤村操の影響が強いようだ。そのせいで哲学=死というイメージが取り払われずにいるらしい。私自身も、哲学という一学問を学ぶ中で自我が喪失した…と言うのは言い過ぎるが「死」の魅力に取り付かれるまでになってしまった。ニヒリズム虚無主義の立場を持つ人間がいるというのは哲学ならでばと言ってもいい、哲学を学んでいなくとも人生の不可解さ、報われなさ、考えうる限界、伝えることの出来ないリアルに絶望し自死を選ぶひとびとの気持ちを私は理解しているとおもう。もともと選ぶことが出来ない中で生まれてきたのだ、その理由を理詰めで考えてゆくのは無理がある。生に有意味性を持たせるのは、なにかしら満たされているひとなのだ、宗教、貨幣、地位、友人関係…その満たされた部分をまるで万人に共通するものとして錯覚し、他人と自分の感覚は等しいと考えてしまっているのだろう、というところに私は気持ち悪さを覚える。もし私が生を肯定的に受け入れることができても、決してそういったことをあたかも「共通の真理」として述べることはしないでおこうと思う。

 

哲学は学問の一分野と思うことができるのだが、今日学問はさまざまに分化し、哲学と言っても、教育哲学、言語哲学、科学哲学、批判哲学、臨床哲学法哲学宗教哲学また包括範囲が異なるが倫理…というふうに、とても一人では学びきれない程度の学問になってしまった。更に哲学の特異性として、共通概念が他の学問と比べ少ないことが挙げられる。理科系の学問とは違い、哲学はピラミッド形式ではなく整列形式とでも呼ぶほうが良い。一部の方向においては、上に積まれたり、下に基盤となったりすることもある。

 

しかしこれら哲学が一学問として認められつつ、実際にそれらで最善の答えを示しているかと言われれば決してそんなことはない。哲学としての役割は、哲学でなくとも担えてきた。カラマーゾフの兄弟人間失格、力学対話、聖書、コーランなどを読んでいけば、現在認められている哲学の諸問題に与えられた各々の回答よりも優れていそうな部分は各所に散見される。だから、哲学独自の有意味性というのは、これら優れた回答から残された残り汁ようなものであるのだ。こういうことを考えて見れば、哲学は要らないと言うひとのことも少しわかる気もする。

 

しかし、だ。これを認めていては私の思いつきに、私らしさ、強要されるかのような今の感情を無に帰すこととなりかねないのでひじょうに弱い弁説だが言っておきたい。私たち哲学病患者あるいは思春期病を拗らせた者者にとって、この哲学という分野は魅力的であるのだ。学問をに興味を持ち、好きになる工程とは逆であるが、今まで考えてきたことに哲学という学問性を与えられたのだ、これは哲学を取り払ってどうにかなる問題ではなく、哲学それ自体が自分を形成しているようである。ほんとうなら、生きる意味、善いとはなにか、あらゆるものごとの根底を探し出そう…などという疑問や動きを行っているひとは哲学すべきだと思うのだが、その答えを「無意味」「考えても仕方ない」あるいは、他の学問への執着や、楽しく生きることを良しとすることによって薄れてしまう程度の感情であるのだから、かれらに私たちは異様なのだろう。

それでも私たちが哲学から離れられないのは、哲学自体に本能的幻惑があるとしか言いようが無い。周りには異様に映っても、当人たちには当然の動きなのである。

 

 

 

孤独

私はよく考えている。傲慢なる言い方と思われるかもしれない、それで構わない。考えの延長線に「合理的結論」「論理的補助」「常識」はほとんどないのだろう。私の中でしか起こりえない、事柄の交わり、意識の交錯。

 

私は思考の中でただ孤独である、孤独を好んでいるとも言える。孤独の中で必死になにかを解そうとするのだ、あまりに哀れに思える。その孤独の中、こころはただ衰弱していて、涙は溢れそうになる。どうしてだろう、こころが弱いと涙が出そうになるのだろうか、それともこれ以上考えてはならないという肉体からの訴えなのだろうか。

 

肉体からの訴え...つまり欲求、抗えない本能。泣きたいというのも今の私の身体にとっては欲求なのかもしれない、しかしそれを私は認めない。泣くことは現実からの精神的な逃避である、なにも得られないのに、考えることの放棄をする。

 

いやしかし、私にとって居るべき最適な場所があれば泣くことが許せるだろうか。居場所なんてあるのか、本来的に、そしてこれからも精神的な孤独からは逃れられない私だ。それでいてこころは弱いのだから、そろそろ壊れてしまうのではないかと自分で少し感じていたりもする。

 

ああ壊れそうだ、どれだけ私が逃げていようと、安堵できる場所を探していようと、このこころはいつも壊れかけだ。

人間らしいのだわたしは。

はやく人間などやめてしまいたい、機械になりたいとわたしの誰かが叫んでいるようだが、理性がそれを許さない。わたしにあくまで人間でいてもらいたいらしい、機械になることを拒否されている。わたしの中には何人かいて、そいつらが各々でわたしのこころを壊そうとする。

 

 

あまりに生きにくい。

思春期という病

ブログを書こうと思ってはてなブログにアクセスしたら、社畜の方ユーモアあふれる独白を見て「ハハハ」と笑いながらも、心では笑えなかった。まあそれは兎も角。

 

思春期は少年期の症状と思われがちだけれど、今でも私には続いている。これは私だけの症状ではないだろうと思いたい。自分は特別な存在で、社会に出て埋没してしまうのが怖くて、才能があるはずなのに出てこないことに思い悩み、それでもやはり凡人であることを受け入れようとしない私なのだ。

 

「おれは特別なんだ」「あいつらとは違う」「みんなは目が悪いからおれの良さをわからないんだ」「どうして理解されないのだ」「もっと上に行けば評価される」

 

どれもありがちであろうが、しかしそれは今なお続いているのだ。自分と言う存在が、私のもっとも嫌う「普通」に埋もれていまうことは、たぶん自己喪失に近い。そもそも私が「普通」というものを嫌うことは、「特別」でありたい中高生のよくある発想からそのまま来ている。精神的に成熟せず、理解されないことの原因を他に求めるのだ。それはまた、努力しないことにもつながっている。私は今でも、努力とは他者に承認されるための見せ掛けのツールのように思っている節がある。そういう風に見せれば、たいてい他の人は認めてくれる。そんな浅い承認欲求を求めていたのだ、今も含めて。

 

この文章を書きながらも、心の底ではやはり「自分は特別」という意識が消えない。私はこれからもしばらく、この憎悪と葛藤の混じった感情を持ち続けなければならないのだ。

 

この際だから自分の嫌いなところ、いやこの思春期という病からの逃避を責めてみようとおもう。思春期のそれ、さっきも書いた「自分はいずれ成功するはず」という考え方は、努力は報われる、因果応報の文化からきている。努力したものは報われなければならない、まして自分なのだ、他でもない自分が努力をしているのだから報われるだろう、という考えを持ち続けることでたいていの人は「モラトリアム(猶予期間)」というコトバに逃げる。私ももちろんそうだった。今はまだ成熟期ではない、まだゆっくりやる時間なのだ、近いうちに認められる。この考えは、原因を他にしか認めず、自己反省を行う機会を悉く持ち去ってしまうだろう、結果としてその循環から逃れられず「社会」というものを否定し始める。既存のものに対し反発しないと、今の自分の状況と矛盾するから自然とも言える。

 

こんな思春期病諸君に送りたい、思春期病真っ只中の私からのコトバは「偉人伝を読もう」だ。一応言っておくが、私は自己啓発の類は嫌いだ、だが私たちの病を治すのは紛れもない私たち自身であるのだから、親や、医者や、友人や、先生に相談したところで自分の正当性を譲ろうとしないだろう、「どうしてわかってくれない」なのだから。人間からの接触で不可能なら、もう瞑想するか、宗教に入信するか、本を読むくらいしかない。本、とくに偉人伝というのは不思議と親近感を与えてくれる。夏目漱石が評価されたのは40歳あたりで、決して早熟ではない。やりたいこともわからず、心は宙ぶらりんだった漱石は右往左往してやっと文学の道に落ち着いたのだ。そのあたりの話は『私の個人主義』に書かれている自己本位という生き方は過度に解釈してはいけないが、思春期病には有効であろう。詩人のゲーテは、志だけが大きく実力の伴わない眼高手低のひと、それにして努力をしないひとを非難しているし「ごめんなさいがんばります」と言って、小さなことを続けていくべきだろう。

 

人間は究極的に独りであるけど、私のように理解しない他者を排除し続けた人は本の中に生きる人物に思いを馳せることができる。すごい人だったんだな、で完結していた人の努力なり、人となりを知れば自分の近くにいるように思えてくる。孤独に歩み始めている私であるが、今まで読んだ偉人たちの生き様を見ていると、これからどうすればいいかがなんとなくわかってくるのだ。かつ、友人のように見做し、友愛を得ることもある。勝手に慕って、恩師のように語ることもある。偉大な発見をした人も、思春期や恋愛や自分の存在でうんうんと悩んでいたのだ。今の自分と照らし合わせたら、少しは気が晴れるだろうと思いながら私は彼らの本を読んでいる。

 

モラトリアムだと済まさずに、もうちょっと考えてみようじゃないか