夜行性

いつからか夜行性になってしまった。22時ごろに寝ても1時~3時までに起きて、眠れなくなる。その間の読書はすこぶる捗るのだけれど、そろそろ日中にも目を開けていたいから無理にでも起きていたほうがよさそう。

今もこうしてカップ麺を食い終わり、エナジードリンクと数冊の本を持ち静かなリビングで読書を試みようとしている(たまに聞こえる母親の寝返りによる音が心臓にダイレクトに響く)

 

哲学史をそろそろやらねばということで、ギリシア哲学からぼちぼち始めた。数年前まで高校生であり、更に高校倫理を取っていたにも関わらず全くお勉強をしない(できない)人間だったためか、人名と命題くらいしか頭に残っていなかった、しかも曖昧。本を読み始めたのは去年半ばあたりからだし、それまで読まなかった反動か否か、1年弱で100冊近く購入することとなった。少しでも将来の貯金にと言われ始めたバイトの給料は大半がここにつぎ込まれた。

 

で、購入する本を見ているとやはり私の哲学的関心が何処にあるかが一応なりとも見えてくる。たとえば死とか、言葉とか、本質論とか、実存なんかがそれに当たる。で、気になるもんだからその周辺の本を増やしていくとどうしても抜け落ちてくる分野があるんです。プラグマティズムだとか、中世哲学だとか、現代哲学は分析哲学を除けばまったく無知です。そういえば、今月の『現代思想』がポスト現代思想やったんでちらちら見てたんですけど、いやほんとにまったくわからない。知識的な面で99%ほど欠如していたと思います。それでも数年以内には、あれを購読して何かしらつらつら書けたらなあ…とは思います。

で、偏ってることに気づいたのは本当に最近で、それからは哲学史を拒否反応起こしながら始めました。どうも歴史は苦手みたいで、履修当初は日本史世界史も大嫌いでした。あと、その哲学史を眺めながら自分の知識の欠如部分(先程の分野)に関する本と情報を蒐集したところ。

 

既に読み終えた本は書評を書きたい所なんですが、なかなか本が溜まるスピードが速すぎて書けない。20冊ほど溜まったら再読を兼ねて書評を書いてしまおうかな。

 

さっきも高校時代に触れましたが、やはり高校までにできなかったこと(私なら読書)は常に後悔として出てきますね。私の母校から大学に行った人たちはやはり勉強をしなかったことを悔やむ人が多かったです。私は高卒ですので、勝手に劣等感に苛まれ、独学を志して、哲学に偏ってしまったというだけですが。

はてなブログを通して、何かしら哲学に造詣のある人を巡っていたのですがなかなか見つからず。それでも明らかに常人ではない方々のブログを拝見し、襟を正して見させていただいています。もっと哲学的命題に関し何千字か書いてくださらないかな?期待をしながら私は読書して待ちます。

 

 

死・絶望

死とはなんだろうか。いや、死というよりも人間の内面から発生する死への渇望はいったいどういうものだろうか。考えるに、死にたい人間というのは逃避の最終手段として「自殺」という手段を用いる。死を選ぶ権利は平等に在る。(しかし死を与える権利は無い)

逃避の最終手段として死が選ばれる訳は、その後に「何もない」であろうという前提が想定されているからであろう。「死にたい」は「楽になりたい」であるというのは自明である、「楽になりたい」というのはつまり現在進行形でなにかしら精神的困窮を与えてくる要素からの脱出、つまり「無」への渇望と見做せる。

だが、死後の世界を無と無条件前提としてしまっているのはあくまで死後に自分の思惟や感覚が存在しないという下での話である。死後の世界を知って、更にそれが現世と同じ苦しみを味わおうものなら、どうであろう。死にたいと願うだろうか。

 

少なくとも日本で未だ仏教的思想が残っていた頃には、死はあくまで通過点であると考えられていた。輪廻転生がその最たる考え方であって、あの思想下では「自殺」はおそらく許されず餓鬼道か修羅道へまっしぐらだったろう。だから当時の人間たちは生きて善行を積むことが大前提だった。

現代ではどうか。私たち日本人の根本的仏教観というものはかなり薄れてきただろう。即ち私が言いたいのは、仏教が日本人の根底にしっかりとあった時代から、仏教観が薄れた科学実証主義時代の現在の間に「自殺」が個人内で是正される何かがあったというわけだ。

ある自殺学によれば自殺とは「自殺が最善の解決策と誤って認識された結果生じる行為」である。また、その自殺選択がたいてい「生きるか死ぬか」の二者択一であるということも重要な点であろう。生きるか死ぬかの二者択一というのは、当たり前なのだけれど、恐らくここで言いたいのは「生きると死ぬ以外に、趣味に没頭する、無心で働く、恋人や片思いの相手と過ごす、勉学に励むなどという苦痛を死以外の別方向によって見えなくする選択肢が用意されてない」ことであって、だからこそ「誤った選択」と述べられるのだ。(考え方からすれば賛成なのだけれど、希死念慮のもたらす盲目性は本人の歩み寄りと周囲の理解がなければならないだろうから、これを現代で行使するのはまだ難しい気がする。)

ここで挙げられる自殺への箴言

  • 合理的な自殺はない。しかし、急性の精神病状態の人にとって自殺は合目的。
  • 自殺を考えるのは異常ではない、唯一手段と考えるのが異常。
  • 自殺を愛に対する敵意と誤解してはならない。身もだえするほどの苦境への極度の苦悩と考えよ

などがある。ここに既に、死にたい人と、死にたいと思わない周囲への準敵対状態が形成されている。考えて見れば、死にたい人間というのは周囲の人間に甘えられない状態に陥っていることが多い。または、とても健全な生き方を出来ないほどの病を患っているか。たいていはこのふたつに当てはめられる。

 

ところで死にたいというのは、様々な「喪失」から来る。友情・愛情などの形は成さないが心的喪失を及ぼすものや、関係のある人間の死という実存的な亡び。周囲から虐げられることによって自分の居場所を喪失することからくる虚無。自分から直接見ないものの周囲や媒体によって必要以上に流れてくる様々な喪失を知ることから起こる、ただ悲しむ自分。自分が何を知っていて、何を知らないのかがわからなくなる…詰り内面的に既成されていたものがすべて綻ぶ喪失による思惟的盲目。

悲しみを付随するときがあれば、既に悲しみが枯れてしまっているときもある。

 

死への望みが濃くなるのはたいていー私の経験上の話になるがー絶望と言える何かを伴うときである。その絶望は必ず他者が関わり、影響を持つ。私的経験上、最もそれを苦痛として感じられたのは、やはり友人やペットを喪ったときである。若くして亡くした友人…私が確かなる友人として言えるのはこの人で最後ではないかとも思う。死人を友人と言ってしまうのはどうかと思うが、確かに友人であったのだ。そして友人と思い続けているのは「変わらない」からなのだろうか。人は生きてゆくうちにやはり変わらざるを得ない、環境が変われば人間関係も変化する、友人というのは私にはコロコロと変異するものではなく、確固として「友人」であって欲しいのだ。だから友人や親友と言うことにひどく抵抗がある。(この話は「永遠」を求める恋人間に似たものがあるだろう)

蛇足だった。死にたかった友人は望みどおり死を手にした。私はそれでよかったと思っている、心から。だがそう思っていても、こう書いていて、思い出せば再び当時の絶望は舞い戻り、私の眼を濡らそうとする。あの絶望はいったいなんだったろう。

 

絶望とは形を持たない、だからこそ絶望なのである。形を持った絶望とは、より具現化され、表層的意識として知覚される。(そしてそれはぜつぼうではない)絶望とは表層意識から溢れるものではない、深層意識(無意識)から本人の意思とは無関係に溢れてくる、なにか真っ黒な液体のようなものだ。(Fate/zeroで言えば聖杯の中身だと思ってくれればわかりやすい)本人が偽りの表層意識を持っていても、まったく無関係に絶望はもっと奥深くから現れる。どうしようもない嘔吐感、身体の硬直、恣意的思考の停止が私たちの身に及んでくる。その黒々とした液体は、わたしたちのこころから蝕み始め、身体全体を包み込んでくる。私たちが絶望を肌に感じられるのは、その身体を包み込まれた後である。どうしようもなく、救いようがなくなってから、はじめて私たちに「絶望」だと認知される。

また、そのときは完全に没主観的である。絶望を認知したときの私たちは、幽体離脱のような、自分とはまた別の自分から、本来の自分を眺めている気分に陥る。そして私たち自身にその絶望は取り払うことは出来ない、死者が蘇ったり、復縁したり、友情を取り戻したりなどせねば絶望消えない、いや絶望は消えずに私たちの表層で別のものに変わるだけなのだが。

 

ところで、私が思うに「失恋」はかなり最たる絶望になりうると思うのだがどうだろう。失恋後はたいてい、関わりを持たなくなる。下手すれば、二度と姿も声も見ないことになる。これは死者とのそれに似てはいないだろうか?勿論依存から孤独への変遷もあるから一概に言えないことであるが、この依存状態も、友人関係が良好でなかったり、社会的に孤独な立場の人間にばかり起こるものであるから、そのひとの依存性を咎めることもできない気がする。

 

 

こう書いていたら、なんだか私は死にたい人間を冷静に見つめている気分になる。また、これを読む人からしてもそう思われてしまっているかもしれない。だが私はれっきとした絶望の体験者であり、死にたがり経験者でもある。だから、死にたい人の気持ちはまったくその状態から疎遠なひとより、寄り添って考えられていると思う。しかし私は、決して幸福論者や生きたがりになったわけではない。人生は恐らく苦痛がほとんどだし、生きるか死ぬかの分かれ道に来たら躊躇せず死の道を選びそうなものだ。

言っておきたい、ひとは苦痛や絶望から目を逸らすために幸福を得たがるのだ。そして幸福の中に居る人間にはたいてい、ほとんど絶望の渦中にいる人間など見えもしない。友人(と思っている人間)が多いひとは、友達がいないと思っている人間とは相容れない。そういうものだ。いつだって、死や絶望から目を逸らし続ける人間と、私は関わりたくもない。

猫のあしあと

猫のあしあと講談社 町田康)という本を読んだ。著者のユーモアと、それに関わる猫たちの話に癒され、涙した。

不思議なもので、どれだけつらい現状で、自己責任というものに塗れていても、動物というのはなんだかいつでもこの悲しみを癒してくれるような気がする。

特に猫、いや私は猫を飼ったことがないけれど、猫にまつわる話はほとんど好きだ。あの飴と鞭を使い分けるかのような、甘えと無関心を使い分けるのはまさしく悪女である。

少し楽になれた。よかった。

じぶん

現在のはてなブログのトピックの一つに「現在の職を選んだ理由」がある。固定職に就いていそうな記事は読む気にならなかったので、中卒や高卒、または職を転々としている記事を読んでいた。

自分のこれまでを加味し、これからを考えてみる。すると

  • 対人は多く含まれないほうが良い
  • 接客は恐らく向いていない。表情は良いらしいが、不満顔がくっきり出る。
  • 学生のノリ(所謂ウェイが多いところは身が持たない)
  • 単純作業は無理
  • 変化の富んだ仕事がいいと思われる
  • ユートピア論に近いが)殆ど上下関係の無い所が良い

などなど。挙げてはみたものの、なんだかこれに当てはまる職業というのはなさそうで、自営業か、それこそ大学教員くらいじゃないかと思う。その大学教員になろうもんなら他に伏線も張れないとも思う。今の関心はもっぱら哲学であるし、そもそもこの哲学への傾倒は<気づき>からであった。哲学に出会うまでにあった思考やそれが周りと相容れないことへの劣等感や悩み、それを一時的に解消し、現在の状態まで持ってきてくれたのは哲学だったので、これには本当に感謝がある。ドラマだ。

 

ところで、哲学病患者である自覚はあるが(残念ながら診断書は出ていない)哲学病を患った者にとって、哲学というものには魔力がある。それのみで、他を退ける力。藝術分野には疎いが、音楽や美術という分野も、それなしでは生きていられない精神状態に陥るのではないかと思う。だとすれば、哲学もその意味に於いて藝術の一分野とも言えるのかもしれない。娯楽に没頭したつもりでも、頭の片隅に、意識の片隅にこの哲学が住み続けている。これを失ったとき、私は晴れて哲学病患者からの脱出である、そしてそれに盲目的に取り込んできた故の欠陥は色濃く残る。

私にはもう、この道しかない、そう思い込まねば恐らくこの藝術を生かして、生き残ることが出来ない。またこれは、ほぼ間違いなく観念論であって現実的問題をほぼすべて棄ててしまっている。それでいいのかも知れない、これに没頭し死ねれば本望とも言えるだろう。

 

人間的に生きるうえで、一貫性という問題が恐らく大昔から付随していることだと思う。今言った観念的な理想を第一に掲げつつ、現実的直面からの逃避は一貫性が欠ける。この両者の強度としては間違いなく後者が強い、私が夢見がちだという理由のみで私は理想を掲げる。

 

私の掲げる理想と、未完了現実的直面の殆ど無意識なる結果論。理想とは何であろうか、退廃的な現実からの正方向への脱出であろうか。退廃的か否か、正方向か否か、これは個々人の経験に縁るであろうが、求めているのはその当人に於いては退廃的現在現実から正方向であるだろう。だが「理想」という言葉に、否定的なニュアンスが込められているのは何故だろう。それならばまだ「夢」のほうがそのニュアンスは弱い。それでも、「現実」という言葉と並ぶと相対的にか無理に近い雰囲気をかもし出してくる語である。私は、この否定的なニュアンスに感覚を支配されている気分だ。理想を掲げると、私の中の別の私が嘲笑ってくる。

未完了・現実的・直面は私たちの無意識ながらの推論が基となっている。凡そが帰納法であろう。哲学の主要テーマとしてこれを疑う態度がある。これまで"そう"であったことはこれからも"そう"であろうか?時間への懐疑も含まれてしまうのだが、現在位置から認知できる過去(と称されるもの)の経験的(伝聞も含む)観測から、未来(と称される)位置への推移に推論を使用する。常識的、感覚的にはこれまでに連続的に起こっていることはこれからも連続的に起こるし、そう信じていないと私たちは何も出来ない(心臓が突然止まる・思考が突然止まることを考えると自分との矛盾が意識内に発生する)

科学や一部哲学は、こうした陥りやすい自己矛盾を是正することに意義があるのかもしれない。

 

 

こうして哲学(っぽい)テーマについて考えていると、思惟世界に入ってしまい、こころが浮つくような気分を味わうことになる。現実の世界に肉体のみ残し、形而上学的世界に精神が在るような状態。このとき精神が現実世界に戻ることを私が思う中で最もよく表しているのが「ハッとする」である。ハッと気づくのだ、現代世界に必要とされているのは殆どが肉体であり、思惟は二の次だということ。肉体が亡べば、この精神も消えてなくなるであろうこと。苦痛や快楽を味わっているのは、あくまで肉体であるということ。生き残るためには肉体が必要であるということ。全て、気づきである。その気づきと共に、一部の人は「絶望」を起こす。思惟内世界は自由である、生きることも死ぬことも自由で、自分のみ理解できる論理構造も可能、一時的にはこの営みだけで生きていける気分を味わわせてくれる。ここでの快楽値が高いほど、ハッとしたときの自己矛盾が自分に重くのしかかる。こうしてダラダラ説明したが、これは即ち「現実逃避」なのである。

 

自分の世界は、自分の思惟にしか構築されない。哀しい。

望むコトバ

何か書きたい書きたいと思いながら過ごしていると、前回の更新から歳が明け、1月も半ばになってしまった。書いては消し、書いては消しを繰り返し、結局何を書きたかったのかわからぬまま。やはりTwitterのように字数制限があると便利だ、思いつきというのはたいてい140字以内で収まる。

 

・いつかも書いた気がしなくもないが、ブログ記事として書くとなると、私の無意識は『2000字程度』を目処にしているらしい。今回は1000字程度で収められるように簡潔なブログにしたい。

 

・思いつきというのは凝固させてやらねば、抜け落ちてしまう蒸気のようなものだ。その凝固作業とは即ち言語化に当たる。言語化の正負両面を観察して見る、すると正の面には凝固作業、そしてそこから得られる実感としての意識や無意識の表層化が見られる。一方の不の面、言語化とは当然ながら『現段階で存在認知され得る言語』内部でしか表現できない。最も適切な表現はまだ見ぬ術語かもしれないと怯え、また言語によって蒸気を枠組みの中に固定してしまう…詰り意識外部の不確定的要素までもがそのコトバに内包されるということ。この言語化及び、言語本質についてはここ「はてなブログ」若しくは、小論としてpdf公開しようと思う。

 

・コトバは私たちの内面に常に潜み、ある形を成したとき様々なコトバとして表現されることを望んでいる。咽び、笑い、怒声…さまざまである。

 

・焦り。20歳ともなりつつ、手に掴むような何かを持てていないことへの焦燥。その焦燥と共に、退避的であろうとする私の<本質> 最早これを甘えと形容するのは莫迦らしくなってくる。実は自分は人間ではないのではないか、言うなれば人間の下位互換性を持ったなにかの生物ではないかと思える。ひとは極地に立つとき、焦り、何かしらの、一応の脱出への行動を取るとするならば、私はひとではない。

 

・まだ若いので今年の目標を立ててみた。『絶望』の小説を書き終える。「意識と本質」の更に深い理解と共に読了。古典ギリシア語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、古典語(古典日本語は外国語と見做している)をそれぞれ到達段階を設定し、今年度中に達成する。哲学史を現代哲学及び教育哲学、法哲学、政治哲学まで含み通史で学ぶ。

以上。

 

 

コトバって何やねん

コトバという術語が私に根付いてきた。この術語はもともと井筒俊彦の「意識と本質」にて使われ始めたものである。最初はただ使っていただけだったのだが、先著の理解もほどほどに進んでくると彼がどのような意図を持って「言葉」と「コトバ」を使い分けたかが解り始めてくる。

コトバは神であったと述べられるのはヨハネ福音書である。いつからコトバを神とする言説があったかというのは、私が知る中ではこれが最古だろう。そして井筒のコトバとは何を意味するかというのは、それは詰り「認知されるすべて」である。これだけれは勿論なにも伝わらない自身があるので私が理解した範囲で順に追って説明してゆこうと思う。

 

術語「コトバ」は私たちの霊魂をふるわせるものである。霊魂をふるわせたときに私たちは喜怒哀楽を表現する。美しいと感じたり、喜んだり、悲しんだり、悼んだり…それらすべてはコトバの作用である。私たちの感情それらはこころの叫びであり、コトバとの共鳴である。ひとが感情に疎くなるというのは、こころが曇り、コトバを感知できる繊細さを失っているといえる。(この要素が先天的だということについては前回の記事参照)

コトバは、言語にも存在するが、たとえば夕日を見たとき、たとえばひとの好意を受け取ったとき、たとえば親しい人を喪ったとき…私たちはこころの中で言葉を媒材として、口には出されぬが抑えがたい感情を受け取る。それこそがコトバの作用詰り本質である。

 

井筒が唱えたコトバの哲学とはこういうことだ。私はこの思想内容を知りえてから、なにかが変わったのかもしれない。井筒思想の評伝を多く書き述べている若松英輔が言うには、コトバは私たちの中に既に在るという。そして哲学の営みとは、それを想起すること(ιδέα)

 

私たちの霊魂(現代の精神というという音韻には合わない)は身体と共に在る。私たちが哀しむとき、たとえば親しい人を喪ったときその人は死者となる。心身がひとつであるとすれば、死者から私たちには何も与えられない…詰り私たちが哀しむことはないのだ。死者の霊魂はそれからも残り続け、私たちに語りかけてくる。それはコトバであり、またそれを私たちはこころの震えとして受け取る。こう考えると、神秘主義というものがオカルトチックなものでなく、コトバの形而上学として意味を持ち始めるのかもしれない。

 

私は絶望し、哀しんできた。そこに若松氏の著書から受け取ったやさしいコトバの数々がある、それを手にした私は強くなった。絶望こそが私の居場所であるのには変わりないが、その居場所からの視座が変わり始めた。やさしい語りかけというのはこうして私に想起させ、ぼんやりとだが使命を感じさせた。コトバってすげえ。

本質論

某氏から

 

1.人の本性は変化するか否か

2.本性は善か悪か

3.本性は存在するか

 

という3つの問題提起に関してブログを書けと提言いただいたので、ここで喜んで書かせていただくことにする。勢いそのままに書くので頭の中で考えうるまま抽出することになるので読むに堪えないという場合は斜め読みしていただいて構いません。(駄文は承知)

 

 

この内容における本性は音韻の響きによる違和感はあれど本質と言い換えることが可能で、2は性悪説性善説から話を進めることが可能である。3は現象学時代サルトルの論文から引っ張ってこれるものである。

 

人間の本性、本質は変化するだろうか。言い換えれば、その人をその人たらしめる要素は果たして私たちの思惟や知識と共に移ろい行くのだろうか。私の回答その1はNoである。何故か。私たちは生まれながらにして先天的な「私的感受領域」を受け取っているものだと考えている。私たちが自己の感覚を認識下で獲得してそれ以降は、文字や人間や思想に浸され変容していくように思われるかもしれない。

だがヘラクレイトスのような…また諸行無常ではなく少し見方を変えてみれば「私たちにはあらかじめ自分の感受できる領域が設定されていたのではないか?」と考えることができる。それは即ち、その分野に於いて絶望的な人間と類稀なセンスを発揮する天才が居るという選民思想の一種を認めることになる。

「あの人は私とは違う」は今更異口できぬ、れっきとした真であって、私たちは絶望的な分野には感覚的な嫌気がするはずなのである。それは本人の無勉が問題なのではなく、先天的に備わった領域がそれぞれ異なることを示している。この領域はかなり厳密に設定されているゆえ、逆説的に私たちは<自分にできること=他人にできること>という等式を成り立たせがちである。これが現代社会での「甘え」の図式にも適応されるのであろうが、それはまた別の話である。

要するに、さきほどの領域というのは新たな知識を獲得しても広がらない。知識は万人に受け入れられるものではなく、またその知識に対し自分が能力を発揮できるかは獲得するまでわからない。言わば、私たちの知識を獲得する作業はマップ埋めのようなもので、本性・本質はそのマップそのものと言える、マップ外へは行こうと思ってもそこはただ暗闇であり、それに酷い嫌悪感をおぼえることになる。(そこへ行くバグ技はあるかもしれない)

要点:先天的私的感受領域が備わっている。

 

 

次、私たちのこころの本質は善人か悪人か。

この二者択一ならば善人だと私は考える。他人のこころなど知れたものではないが、私は誰をも持ちうるこころの繊細さはあるのではないかと信じ、またそう考えている。私たちは文字を追うだけでもその人のリアルを追体験することができ、悲惨な追体験には心を痛ませ、喜びは共に味わうこともできる。だが同時に、まったくの他人に対して私たちは残酷になれるということも矛盾する事実として存在する。矛盾を相容れぬものとして、どちらかに同化させるというものは「論理として」正しいものであるが私たちの事実認識をひどく歪めることを危惧させる。この矛盾内での整合性は敢えて取らないものとする。

つまり、こころの本質は善であり、慈愛、自愛、他愛のこころを持ち合わせているにもかかわらず、私たちはそれをごく一部にしか…人によっては自分のみにしかつかえなくなってしまっている。

本質というものの本質は、磨けば光るものだと考えている。時代や社会やこころの痛む悪にさらされたわたしたちのこころは既に汚れきっているのかもしれない。だから私たちは親しい者に対する同調のこころを思い出し、その追体験としてこころを震わせることを、この「性善説」の現代的意義、そして私の信条として提起したい。

 

 

最後に、本性は存在するかどうか。ここまで書けば最早言うまでもなく、存在する。変わらず存在し、善のちからを持つ本性即ち本質はわれわれには存在している。

見えなくなっていることを、存在しないと解してはならない(またこれに対極から同様に言われることも十分にある)

 

こころは繊細であり、簡単に震えてしまうものなのだ。ほんのすこしじっとして無になり、親しい人の繊細な文章を読んで見よう。簡単にその世界に入り込んでしまうものなのだ。