思考限界の規定について

机の上がすぐに散らかる。必要な気がするものを机上においていくとどんどんと積まれていくのだ。2週間に1度くらい、片付けのようなことをしている。

整理整頓というのは、片付ける場所があって成り立つものである。私は、スペースもないのにものを増やすから整理もなにもない。要らないものは捨てていかないと。

 

 

ふと、自分の思考の限界点はどこにあるかと思った。思考とはつまり、考えられる範囲であり、その中でしか私は考えざるを得ない。突然私に数学的センスや、芸術的センスが"一時的に"芽生えれば、普段の私からすれば限界以上の思考をできることになる。だがこの例えは無意味で、そのようなことにはならない。芽生えることは一時的だけでなく、それから永続的に頭の中に蓄えられるものだから、思考限界の拡張を意味する。

 

「思考し得ないものは沈黙しなければならない」というヴィトゲンシュタインのコトバがある。詳しくは述べないが、要するに文字通りの意味である。このコトバの書かれている「論理哲学論考」を私は読んでいないので、ここから話をうまく広げることはできない。

 

しかし、少し齧る程度の知識はあるのでそこから話をしてみよう。

 

今回の題名は「思考限界の規定について」である。思考限界というのは、われわれの意識しうる思考内のみから規定することはできない。都道府県や国境で考えるとわかりやすい。たとえば京都府滋賀県は隣接しているので、仮に京都府を思考限界内、滋賀県を思考限界外としよう(形などは気にせず、このふたつの領域があるとする)

この県境は京都府だけから決定しうるかどうか、勿論できない。県境(思考の限界点)は滋賀県からの考察がなければ規定し得ない。ということで、滋賀県側からの考察が必要になったのだが、滋賀県=思考限界外ということを考えると

 

考えられないものを考える

 

必要がある。当然矛盾するので、思考限界というものを規定することはできない。ここまでが(多分)ヴィトゲンシュタインの主張。

 

これだけ書いたらただの受け売りだし頭が悪いのであえてこれへのアンチテーゼとして思考限界を規定しうる立場で考えて見る。

 

けど今は思いつかないのでとりあえず題目だけ置いときます…。